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ひねくれ者のための聖書講座7 御利益と祝福

ひねくれ者のための聖書講座7 御利益と祝福



ひねくれ者のための聖書講座7 御利益と祝福

 私は聖書を信じているので、どんなに努力しても、妥協しても、信じていないような話は出来ません。しかし、元から聖書を信じていたわけではないし、喜んで信じたわけでもないので、信じていない人の気持ちやあり方についても、自分の経験の範囲ではありますが、ある程度は理解できるわけです。
 そして、何度かお話してきているように、「自分は聖書を信じていると信じている」さまざまなタイプの人たちが、「信じていない人たちを信じさせようとして」、さまざまな善意の押し付けや、神の名において行ってきたことをどうにも許容することができないという強い気持ちもあります。
 キリスト教の歴史は、言わば、闘争と文化侵略の歴史です。破壊や強奪、挙句の果てに殺戮まで行い、それが「信仰の結果」であり、「神のみこころである」と宣言する特に最近のアメリカの現状を見るに至っては、「本当の信仰」と「そうではないもの」をきちんと区別してお伝えする必要を強く感じるようになりました。この講座もそうした私なりのこだわりのひとつです。
 もちろん、「私だけ」が、また、「私の関連するグループだけが」正しい信仰を継承しているのだと、旗を掲げ、何かを主張したいと思っているのではありません。あるのは、「主の側」であって、そちらに誰がつくかという話なのです。分裂、分派の中で甲乙を競うことは全く無意味です。
 つまり、私が問いかけたいことは簡単に言うと、ふたつだけです。とてもシンプルです。そのひとつは、「聖書に何と書いてありますか」ということ。それは、特別な資格や資質を持った人でなくてもわかります。誰であっても誠実に検証すればわかることなのです。むしろおかしな知識や、妙な経験なんてない方がむしろいいのです。真理というのは、誰の目にも明らかなものです。いつまでたってもある一握りの人にしかわからないような秘密は真理とは言えません。そしてもうひとつは、「あなたは個人的に神の問いかけにどう答えるのですか」ということです。信仰は個人的なものです。集団で醸し出す雰囲気や形式、ともに遵守する約束事の中にあるのがキリスト教であるなら、聖書を自分の判断で読み、個人的に応答するのがキリスト者のあり方です。私はこれを「神の前のひとり」という言い方で、何度かHPでも発信して、かなりの反響を頂いています。

 さて、今日は、「御利益と祝福」というテーマで考えていきます。
 イエスを信じたらどんな御利益があるのでしょう。「神の子どもとされる特権」とか、「永遠のいのち」とか言われても、それがどれほど大きな祝福なのか、いかに確かなものなのか、すぐにはわかりません。
 福音書の中で、中風の人が癒される場面がありますが、その際にイエスは、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのとどちらがやさしいか」という問いかけをされます。これは、直接は「罪を赦す」という発言に敏感に反応した律法学者に対してのことばなのですが、同時に、今まさに「中風が癒されること」しか頭にない病気の人やその周辺の人々に対することばでもあります。「罪という概念」にとらわれていては、病気がもたらす人の痛みが見えなくなります。逆に目の前の「病気の痛み」にとらわれていては、神の前の罪が見えません。

 このイエスの問いかけが意味することは何でしょうか。
 それは、「目に見える奇跡」がもたらす「御利益」ではなく、それがいったい何の「しるし」であり、目に見えないどのような「価値」を暗示しているかを信仰によってとらえるべきであるというメッセージです。すなわち、神の与えようとしている「本当の祝福とは何か」ということです。

 しかし、この中風の人に限らず、借金を返せたとか、悪い習慣から解放されたとか、病気が治った、友だちができたとかいうような極めて自己中心で手前勝手な願いがかなうことが、本質的な罪の問題や神との関係に優先する価値に見えてしまうのが、人間の弱さというものです。
 そうした欲望を満たしてくれる力があるなら、何でもすがるし、何でも拝む。多少の無理も承知で、時間や財産も投資します・・・というのが宗教の本質です。宗教というのは、そのような「人の御利益願望」を満たす組織や体系」なのです。もちろん神は私たちが健やかに問題なく人生を楽しむことを望んでおられます。そのようなレベルでも人を祝福することは神の喜びではありません。それは神にとって難しいことではありませんが、神にふさわしいことではないのです。ですから、この世には目に見える一時的な不幸や災いは存在します。

 誰もが自分の子どもに対して無償ですべてを与えてやりたいと思う気持ちをもっていますが、賢明な親は、いくら裕福であっても、やたらめったら、物やら金やら与えたりはしません。子どもの発達や能力や特性に応じて、その必要に応じて順次与えていくものです。  
 神の祝福というのは計画的で教育的なものです。そして、何よりその祝福を通して伝えたいのは祝福そのものではなく、御自身の「愛」であり「人格」なのです。
 そのような意味における宗教が与える「御利益」と、神がお与えになる「祝福」の違いについてお話しましょう。「御利益」がすべて悪いというわけではありません。私もまず普通に願うことは、御利益的なものです。それは人間であれば当然です。
 私のことばの定義でも、祝福の中には御利益が含まれています。しかし、「本当の祝福や祝福の中心は御利益ではない」ということです。神の愛、神の御人格という、祝福の中心を失うと祝福の周辺も失われます。そのとき失われる周辺の祝福を、私は御利益と定義してお話しています。
このあたりをよくわかっていたくために、ユダヤ人の偉大な先祖であるヤコブという人について考えていきましょう。
 ヤコブというのは、「押しのける者」という意味です。ヤコブは、その名の通り兄をも押しのけて祝福を奪おうという貪欲さと、それを実現するための狡猾さを併せ持った男です。
 猟から帰って来た疲れ切った兄をだまして、長子の権利を強引に奪い取ったその手口には、やさしさも品格の欠片さえありません。どう読んでも褒められたものじゃないです。(創世記25:27~34)

 この記事からわかることは、ヤコブは日頃から弟である自分の立場を悲観し、兄エサウを妬んでいたことがわかります。それは父イサクが明らかにエサウを偏愛していたことにも原因があると思いますが、イサクがアブラハムから受け継いだ祝福がすべて兄に持って行かれることに怒りを感じていたようです。そうでなければ、疲れて帰って来た空腹の兄に「たった一杯のあつものと引き換えに長子の権利を売れ」などということばはとっさに出てきません。たまたま煮物が出来上がったタイミングでエサウが帰って来たのか、エサウが帰ってくるタイミングを見計らって、ヤコブが調理をしていたのかは定かではありませんが、おそらく計算ずくでしょう。本来、兄弟は苦しみや悲しみを分かちあったり、互いの弱さを補いあったりするものでしょうが、ヤコブはエサウの弱点を知り抜いて、この場面を設定したように思えます。このように解説すると、ますますヤコブは最低な人物に思えてきます。

 ヤコブの人格形成には、両親の養育態度も大きく影響していました。父イサクはエサウをひいきしていましたが、母リベカはヤコブをひいきしていました。これは家庭教育のあり方としていただけません。信仰なんか関係なく、紛れもまく馬鹿親の態度です。親子の関係が夫婦の絆に優先するのは、危険信号です。日本の家庭の場合はたいていこうなっています。昔から「子はかすがい」と言いますよね。かすがいとは、2つの材木をつなぎとめるためのコの字型の大きな釘のことです。聖書は、夫婦は一体、つまり一本の木だと言っているのです。死に瀕した夫をだます妻に、そうした麗しいものを感じることは出来ません。母リベカは大事なヤコブに入れ知恵して、死ぬ間際の夫イサクをだまします。イサクはその策略を見抜けず、ヤコブをエサウだと思って祝福してしまうのです。(創世記27章)愚かなストーリーです。

 しかし、これは決してリベカとヤコブの策略がすぐれていたからではなく、エサウが長子の権利を軽蔑した結果、こういう展開になったと見るのが聖書的な見解です。(創世記25:34)「一杯の食物と引き換えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がいないようにしなさい。」(ヘブル12:16)と聖書は言っています。
 人間の側のあれこれでヤコブが祝福を引き継ぐのですが、こうした一連の意地汚い不正行為の手口を使った結果、彼は祝福とともにその巻いた種を刈り取る経験をすることになります。
 一杯の食物と引き換えに長子の権利を奪った取引も姑息なら、父イサクの死に際してのこの嘘も、負けず劣らずとんでもないものです。年老いて目が見えにくくなった家長の弱点につけこんだこの卑劣で子どもじみたトリックをもう一度確認しましょう。
 「それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。」(創27:15,16)
 弟ヤコブは、母リベカと一緒になって策略をめぐらし、「兄の晴れ着と子やぎの毛皮」を使って兄エサウになりすましてイサクの枕辺に近づきました。年と共に視覚と聴覚は衰えても、臭覚と触覚はまだ大丈夫でした。残された自分の感覚を信じたイサクもまた愚かとしか言いようがありません。
 「ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。『声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。』ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。・・・イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。『ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。・・・』」(創27:22~27)
 このだました方法をよく覚えておいてください。

 弟ヤコブは兄エサウの憎しみと仕返しを恐れ、その後、おじラバンの家に潜伏します。母リベカは、ラバンが「自分の兄だから、可愛がっているヤコブを大事にしてくれる」と考えたのでしょうが、それは都合の良すぎる甘い考えというものです。ヤコブは死に際の父をだまし、兄の祝福を奪い取ったのです。より近い身内である親兄弟に進んで恥を追わせるような人間を、より関係の薄い親戚が親切に献身的に迎えるはずもありません。
 ヤコブは羊飼いとして働きますが、おじのラバンは幾度もヤコブの報酬を変えます。ヤコブはラバンの下の娘ラケルを愛し、彼女をめとるために7年間仕えますが、ラバンはヤコブをだまして姉のレアを与えます。そして、ラバンの下でさらに7年仕えることになります。(創世記29:25~27)当然、こうしてめとったふたりの妻はうまくいくわけがなく、嫌われているレアの方が先に子どもを産むので話はますますややこしくなります。(創世記30:1~8)おそらくヤコブは自分の卑劣な方法を思い返し、神の前に恥じたことでしょう。そんな中でもヤコブは不思議な方法で神に祝福を受けて豊かになっていきます。(創世記31:5~9)

 やがてイスラエル12部族の祖となる12人の子どもたちに恵まれ、安泰に老後を向かえると思えたときです
 またも、ヤコブは、過去の愚かさを思い起こされる出来事に遭遇します。リベカが自分を偏愛したように、ヤコブはヨセフを偏愛します。これに特別な服を着せるのです。この感覚も普通に考えればどうかしています。兄弟はヨセフを妬んで、彼をエジプトに売りとばし、さらに父ヤコブにはヨセフの長服に獣の血をつけて、自分たちの仕業ではなく死んだように見せかけます。

 「彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、『これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。』と言った。父は、それを調べて、言った。『これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。』ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、『私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。』と言った。こうして父は、その子のために泣いた。」(創世記37:31~35)

 ヤコブは子どもたちからまんまとだまされました。しかもそれは、自分が兄をだましたのとそっくり同じ方法でした。たとえ、求めるものが正しかったとしても間違った方法で、それを求めたことを、主は見逃してはおられなかったのです。

 ヤコブの子であるユダも、家族である嫁のタマルからだまされています。それは彼女がやもめの服を脱ぎ、「ベールをかぶって遊女のふりをしていた」ので判別できなかったのです。これも情けない事件です。(創世記38:12~26)
 この自分の嫁を娼婦だと思いこんで床をともにして身ごもらせた事実が、マタイの福音書のあるキリストの系図に出てくるのです。(マタイ1:3)

 まだあります。ヨセフは実際に生きていてエジプトで大切にされます。エジプトのポティファルの妻に誘惑された場面でも、ヨセフは罪を犯さず逃れますが、「寝室に残された彼の上着」が物的証拠となってしまいます。
 「ある日のこと、彼が仕事をしようとして家にはいると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。それで彼女はヨセフの上着をつかんで、『私と寝ておくれ。』と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。 『ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとしてはいって来たので、私は大声をあげたのです。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。』彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。」(創39:11~16)
 ここまで来ると、横溝正史的な「ヤコブ家の一族、衣の呪い」とでも名付けたくなります。
 蒔いた種の種類に応じて、収穫を刈り取るように、その育て方が収穫を左右すりように、人は必ず蒔いたように育てたように、その実を刈る取ることになります。これは神の法則です。

 「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」(オバデヤ1:15)

 旧約聖書のみならず、新約の恵みの下でも、その法則は同じです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7,8) 
 
 罪は信じた瞬間にすべて贖われています。ヤコブが受けたのは、決して罪が赦されなかったための罰ではありません。祝福とは、神の法則から、神の御性質を学ぶことです。神の御性質がわからなければ、交わりはできません。神の御性質とは何でしょうか。
 それは「人としてのイエス」です。私たちが、人生の歩みにおいて「十字架と復活を経験すること」これが祝福の中心なのです。ヤコブが兄を押しのけて求めた財産は、単なる「御利益」です。放蕩息子が父からもらった身代も「御利益」です。これらは、逆に苦しみや悲しみをもたらし、また、湯水のように無くなるものです。

 そのような中で、自分のあさましさや醜さが浮き彫りにされ、己の人格や力量の底を見せられること、これが十字架であり、そこから復活したいのちによって、永遠につながる祝福が始まるわけです。「死を越えたよみがえりのいのち」、これは宗教のもたらす御利益とは全く別の次元のものです。
投稿者 emi 時刻: 20:06
by kakosalt | 2012-10-17 21:48 | ひねくれ者のための聖書講座

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