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ひねくれ者のための聖書講座28 終末は週末(ウイークイエンド)

ひねくれ者のための聖書講座28 終末は週末(ウイークイエンド)



ひねくれ者のための聖書講座28 終末は週末(ウイークイエンド)

 民主党が政権交代を果たしてちょうど1年になります。
 民主党に期待するというより、自民党に灸をすえる感じの民意の反映だったと感じていますが、小泉さんの以降、安倍さん、福田さん、麻生さんの自民党の世襲組のリレー。そして、ようやく政権が交代して、鳩山さんが続きました。ここで菅さん不信任で総辞職となれば、まるで日本の首相の任期は1年とでも決まっているかのように、コロコロ代わっていくことになる。これじゃあ、まるでコンビニの店長みたいなものです。そこをごねて踏みとどまったわけですが、いずれしたこところで、こんな日本じゃ、世界で信用されるはずもない。菅さんは最低ですが、かと言って、その代わりがどこにいますか?最低以外の器を探すのも難しいのが、今の民主党です。沖縄の米軍普天間飛行場の移転先を「最低でも県外」と約束しながら、結局は県内移転で米国と合意した鳩山さんが、菅さんをペテン師呼ばわりしているのは、もう笑い話にもならない感じです。そんな民主党の重要閣僚のひとりである与謝野馨経済財政担当大臣は、先月5月20日の閣議後会見で、東京電力の福島原発事故について、「神様の仕業としか説明できない」と発言しました。同原発の津波対策に関しても「人間としては最高の知恵を働かせたと思っている」と語り、東電に事故の賠償責任を負わせるのは不当だとの考えを重ねて強調していました。さらに、事故評価が最悪のレベル7になった際にも、「原発は電力供給の為に必要」と断言し、「事故の評価にかかわらず今後も原子力発電を推進していく」という主旨の発言をしていました。そして、自民党政権時代に通産相として原発を推進してきた責任を問われても、「謝罪する気はない」と言ってのけたので、誰もが我が耳と彼の神経を疑ったものでした。このように神の名を持ち出しながら、神など全く信じないし、自分の罪を自覚するどころか、悔い改めることもない鉄のような心に本当に恐ろしくなりますが、こういう連中が日本を仕切っているリーダーなのです。
 一方、こちらは政治の話ではありませんが、アメリカ・カリフォルニア州では、福音派ラジオ局「ファミリー・ラジオ」を運営するハロルド・キャンピングが、先月5月21日の米東部標準時間で午後6時から、世界の各地で今まで見られなかったほどの大地震が起こり、キリストは再臨し、聖徒の霊は墓場から蘇えると吹聴しておりました。世界で約3%の真のキリスト教徒のみが、キリストとともに天に昇るというラプチャー(携挙)が起こり、取り残された者は、10月21日の地球滅亡まで地上で苦しむということになっているというのです。ハロルドさんのグループは、そのような信仰によって、これまで、全米に1200の広告板「聖書が保証する」を立ててきました。中には、妻子をおいてそのツアーに参加した人や、退職金をはたいて広告用ポスターを作った人もいるそうです。
 
 まあ、こんな具合に、神の「存在」についても「救済」についても、人は何でも好き勝手に語ることが出来るし、間違ったことを言っても、急に天からの罰がくだるわけではありません。実際、5月21日は何事もなかったわけですが、ハロルドさんは悪びれもせず、修正した日を発表しています。
 与謝野さんも、決して「学校の成績的」には頭の悪い人ではないですよね。しかし、彼が議員になる前は、日本原子力発電の社員だったことを割り引いても、言っていることは馬鹿としか思えません。また、ハロルドさんが手に持っている聖書には私の聖書とちがうことが特別なことが書かれているわけでもないでしょう。彼は、普通に読み間違っているのです。人は同じ現象を見ても同じように感じるわけではないし、同じ聖書を読んでもその反応は同じではない。 私は与謝野さんとは違う意味で津波も事故も神の仕業だと思うし、また、ハロルドさんよりも切にキリストの再臨を待ち望んでいます。人は自分が見たいようにものを見、信じたいように信じるだけです。

 今日も私は、淡々と自分が信じているところをお話するだけです。何を話すかを具体的に考える前に、「終末は週末(ウイークイエンド)」というタイトルをつけてしまいました。こういうダジャレが好きなんです。このタイトルを決めたときに、まず伝えたいと思ったことは、「終末」と言っても、何もかも終わって無になってしまうというような破壊的、破滅的なものではないということです。「世の終わり」などと言うと、すべての人が無差別に死に絶えてしまうとういうイメージを持たれるかも知れませんが、決してそうではありません。聖書が語る「終末」は、無差別というより、むしろ選択的です。その日、滅びるのは滅びに値する者、自らを滅びにふさわしいと選んだ者たちだけの滅びであり、限定的な終わりです。神を信じ、待ち望んで来た者たちにとっては、喜びであり、解放であり、神の統治の始まりなのです。
 神はかつて、天地創造の際、「6日」にわたって創造のわざをなされ、「最後の1日」は休まれました。それと同じ様に、神は、全ての歴史の最後の千年を、安息の時代とされることでしょう。苦しい苦役のウイークデーが終わって、いよいよまことの安息が始まります。そのようなイメージから、終末は週末(ウイークイエンド)というタイトルにしたのです。本当の安息日が始まるのです。イエスが来られた時にも安息日をどうとらえるか、どう過ごすかは大きな論争の種でした。イエスはあえて律法を破って律法の本質を示し、安息日の安息とは何か、主権者は誰かを明らかにされました。しかし、みことばを守って来た人たちは、そのことを全く理解できませんでした。人となられたイエスの贖いの中にのみ安息があったからです。キリストの血を拒む者には、罪に対する恐怖と不安しかありません。
 さて、「千年王国」が終わると、現在の古い天地は過ぎ去り、「新しい天と地」が創造されます。その時、神を信じ、神の御心を行なう者は、みな復活して新しい体を与えられ、キリストとともにそこに住みます。旧創造の世界から新創造の世界へと完全に移り変わるのです。この「千年王国」および、「新しい天と地」における新しい世界の全体を、聖書は「神の国」と呼んでいます。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはない」のです。(ヨハネ3:3)聖書のことばをどれだけ頭に詰め込んでも、禁欲生活を送っても、修行を積んでも、善行を行なっても無駄です。ところが、新しく生まれ変わった信者の中では、神の国はすでに始まっているのです。
 
 「終末」や「神の国」に関することは、マタイの福音書24~25章に詳しく語られています。
 マタイ24章には、終わりの時代のことを書かれています。2000年前に、まさにイエスは今の時代のことを語られたわけです。この24章の全体を解く鍵は、「イエスが宮から出て行かれるとき」(マタイ24:1)です。エルサレムの神殿は、本来神と人との会見の場所です。その宮であるところから、宮の主である御方が出て行かれる。つまり、教会から、イエスの臨在が消えることを暗示しています。弟子たちは、神殿の素晴らしさに目を見張っていますが、その中身は霊的には空っぽでした。イエスは警告しておられます。「人に惑わされないように」と。キリストの名を名乗る者が人を惑わすからです。さらに、戦争や戦争のうわさを聞き、民族や国どうしの敵対関係が激化し、ききんや地震がおこります。そして、不法がはびこり、多くの人たちの愛は冷たくなるのです。しかし、ここではっきり語られていることについて確認しましょう。「しかし、終わりが来たのではありません。」(マタイ24:6)終わりは、悪い出来事の積み重ねによっては来ないのです。終わりの日は、みことばがくまなく、全世界に伝えられたという確認によって訪れます。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、それから終わりの日が来ます」(マタイ24:14)と書かれています。
 これまでにも、世情が不安になると、終末に関する噂や思想はたくさん出回ってきました。この世での不安や不満、不全感を抱く人たちは、この種の話には飛びつくものです。世界中どこでも、いつの時代も同じです。時々、世をはかなみ自暴自棄なった人たちが、無差別に人を殺すような事件もおこりますが、世の終末は、その種の終わりではありません。こういう事件を起こす犯人は大抵こう思っているのです。何もかもおしまいだ。みんな道連れにしてやる。しかし、世の終わりは、こうした腹いせの壊滅ではなく、神御自身が己の身を切るような痛みをもった裁きです。「自分だけ神様に気に入られて救われよう」という考え方のセコさは、道連れ型の破壊行為と動機においては大差がないような気がします。要するにそこにあるものは、強烈な自己中心です。
 「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)このみことばは最もポピュラーなものです。聖書をろくに読まない人でもたいていは知っています。この意味をわかっているのでしょうか。神はどのような罪深い街であっても、滅ぼすには忍びないのです。ソドムを滅ぼすときには、アブラハムに、ニネベを滅ぼすときには、ヨナにその御心をお示しになりました。ソドムはただちに滅ぼされましたが、ニネベはその時期を少し伸ばすことが出来ました。アブラハムはとりなしましたが、ヨナはとりなしませんでした。ソドムの街は悔い改めませんでしたが、ニネベの街は悔い改めました。
 私たちは、世界を滅びに至らせる神の御心の痛みを知っているのでしょうか?
 「わたしがしようとしていることをアブラハムにかくしておくべきだろうか」(創世記18:17)
 「わたしは、この大きな街ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」(ヨナ4:11)
恐れ多くも、「神を信じる」と言うのであれば、アブラハムのようにとりなし、ヨナのように学ぶべきです。アブラハムはソドムを罪ある街として距離を置いていましたが、おいロトの身を案じ、その救いのためにとりなしました。アブラハムにとってソドムの滅亡は他人事ではなく、自分ごとだったのです。しかし、ヨナは、罪深いニネベの街など滅んで当然だと、自分とは切り離して考えようとしました。神はそんなヨナに、「それは預言者の態度ではない」と教えるのです。さらにそんなヨナの取り扱いが、がイエスの十字架と復活のモデルとなっています。そのメッセージの核心は、「主権者は誰で、どのような御方かということ」そして「悔い改めの重要性」です。愛は決して問題を分離しません。抱き込むのです。かえって自分自身の中にかかえ込むのです。
 例えば、家族の中に何か問題が起こったとします。子どもが何か悪いことをした。親はそれを自分の苦しみとして抱え込みます。それは子どもがしたことであって、私とは関係がないなどとは言えません。子どもが病めば、親も病むのです。子どもが傷つけば親も傷つくのです。子どもが罪を犯せば、親が痛むのです。もちろん、正しい親であれば、その問題をうやむやにはせず、きちんと償いをし、そして、罰も受け入れるでしょう。しかし、子どもの受ける恥や苦しみを他人ごととは思いません。そのことによって激しく傷つき、苦しむのです。子どもを残して、自分だけが問題を回避して安全地帯へ逃れようと思うでしょうか。それはありえないことです。
 「地震は神の裁きだ」「神の警告だ」と声高に叫ぶ人たちがいます。全くその通りです。私もメッセージの中でそれに近いことを言いました。しかし、同じメッセージでも、痛みや憂いなく、冷たく言い放つ人々に、私は神の愛を感じません。終末に関する預言の成就を楽しげに吹聴する人々がいます。私はそのような人たちにキリストの香りを感じません。
 ともに死ぬにしても、生き残るにしても、大切なのは神とのつながりです。神と絆がなければ、死んでもそれは滅びではなく、生き残ってもそれは救いではありません。世の終わりは、人の管理の終わりであり、神の統治の始まりです。それは信仰者にとっては、解放であり喜びです。

 世の終わりには、そのクライマックスにキリストの再臨があります。Ⅱペテロの3章から考えてみましょう。(Ⅱペテロ3:1~13)終わりの時代には、その再臨をめぐってふたつの誤解があることを語っています。「キリストはもう来ない」あるいは、「まだまだ先だ」と思っている人たちがいる。その一方で、「キリストの再臨を遅い」と思う人たちがいるということです。
 再臨がいつあるのかをめぐっても、宗派によって考え方はバラバラです。しかし、聖書全体を読めば、教会が艱難前に携挙に合うことなど有り得ません。マタイ24章を見ても、「最後まで耐え忍ぶ者が救われる」(マタイ24:13)と書かれています。終わりの日は、旅に出ていた主人の帰って来る日であって、別にその家の終わりではありません。ただ管理人にとっては思いがけない時であるということです。
 先ほど、救いや滅びが選択的であると言いましたが、それは「畑にふたりいると、ひとり取られ、ひとりは残される」(マタイ24:40)というような確率、あるいは、状況だということです。つまり、どこかの教団や宗派に属しているから安心、誰かのメッセージを聞いているから大丈夫というものではなく、個人を見極め、篩い分けるような厳粛な選別です。
 習慣的に集まって宗教的に奉仕するのも、ネットでつまみ食いして良いところ取りするのも、同じです。すべて自己中心でキリスト中心ではありません。私たちは、今、恐らく全人類の歴史の終わりの時代を生きています。言わば、歴史の見届け人、あるいは、最後の見張り人として、この世にあるのですから、喜びをもってキスリトを待ち望みつつ、同時に恐れをもって、この世を見つめ、愛し、憂い、とりなしたいと思うのです。そのためには、私たちの心が霊的に正常に機能することが大事だと思います。悪や不正、穢れに対する嫌悪や怒り、愛すべき存在が病み、傷つき、失われていくことへの痛みが、そのまま祈りだと思うのです。「終わりだ」「再臨だ」と、不自然に、心をかきたて、追い立てるようなものでは決してありません。
 道元という禅宗の開祖がいますが、末法を理由に修行をサボる人たちを一括する文書が残っています。宗教のレベルでも、そういう落ち着きのなさは揶揄され、喝破されるべき状態だということです。終わりに際して最も大事なのは、何か特別なことでなく、淡々と主とともに生きる日常を送ることだと私は信じています。(Ⅱテサロニケ3:10~13)主をお迎えすることはもちろん特別なことですが、日々、主とともにいれば、それほど特別ではないはずです。
by kakosalt | 2013-02-15 12:20 | ひねくれ者のための聖書講座

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