イエスのたとえ話3 種まきのたとえ マルコ4:1-20

イエスのたとえ話3 種まきのたとえ マルコ4:1-20



イエスさまはいろいろな場面でさまざまな人を対象にして多くのたとえをお話になりましたが、それそれのたとえが「誰に対して」「どのような状況で」語られたのかということを確認することも、たとえを正しく理解する上で大切な条件のひとつです。「種まきのたとえ」は、弟子たちにでもなく、パリサイ人や律法学者に対してではなく、特定の誰かを対象に語られたものではありません。種々雑多なおびただしい数の群衆に対して語られたメッセージです。ルカによれば、方々の町からやって来たと書かれています。場所は湖のほとり、群衆は岸辺の陸地にいましたが、イエスさまは舟の上におられました。みもとに集まってきた群衆に話をするために舟に移られたのでした。ちょっと不思議な光景ですね。
また、当時の種まきの方法についても知っておいたほうが良いでしょう。当時のユダヤの種まきには大きく2種類の方法があって、ひとつは種の入った袋に穴を開け、それをろばに背負わせて歩かせながらまくという方法です。もうひとつは、ミレーやゴッホの絵で見られるように、手でばらまく方法です。いずれにしてもいい加減なやり方なので、作業が楽な分、効率はあまり良くないわけです。日本人の感覚では「どうして道ばたに種がまかれるのか」と不思議に思うのですが、休耕地にこういうアバウトな方法で種をまいた後で耕すという方法が一般的だったようです。
種まきのたとえは非常にわかりやすいたとえだし、イエスさま自身の解説がそのままみことばの中にありますから、あえて補う必要がないほど、そのメッセージの意図は明確です。要するに「みことばの聞き方に注意するように」ということです。そして、最大のポイントは「心の良い地にみことばを落とせば多くの実を結ぶことができる」という朗報にあります。国語的な意味での理解は容易です。しかしながら多くの場合、このたとえのとおり、みことばを聞いて理解はするのは易しいけれど信じて実を結ぶということが少ないのです。私たちのみことばの受け止め方が、このたとえの分類にはめ込まれてしまっています。種まきのたとえは、このたとえだけでなく、他のすべてのたとえを含むイエスさまが語られるみことばのすべてを聞く姿勢について語っておられる点で、その重要性とわかりやすさは際立っています。では、この後の解説を心の良い地に落とせるように、十分に注意を払って起き聞ください。読み方のポイントを何点か明らかにしておきましょう。あまり重要視されない最大のポイントを初めにおさえておきます。それは、種まく人が「まく土地を選んではいない」ということです。種をまく人は、ただ「それが種だからまいているだけ」なのです。どこに落ちるかはある意味知ったことではない。種はそこに「落ちた」のです。意図して「落とした」のではない。だから種まく人の責任はそこまでです。大事なことは種まく人が「本物の種をまいているかどうか」ということです。種であれば、落ちた地が良ければ実を結びます。しかし、それが種のかたちによく似た何かの粉や粒をまいているだけなら、それは落ちても決して実を結ぶことはありません。みことばではなない道徳や教えを語っていても、そこからは何も生まれはしません。いのちがないからです。種は「そうこうしているあいだに目を出して育ち」「人手によらずに実をならせるのです」(マルコ4:26~29)これは、すごいことばです。誰も主から栄光を横取りして、私はこんな苦労したと言える者はありません。本当の働き人は誰でもそのことを普通に知っているのです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(Ⅰコリント3:6~7)とパウロは書いています。
教会の最大のつとめは「種をまくこと」です。要するにみことばをそのまま伝えることです。実はこの最も単純で当然のつとめを教会が怠っている。ここに問題があります。そもそもまいているものがみことばでなければ、何の芽も出ないし、仮にわずかなみことばが芽を出しても、いのちの成長にまかせず、害虫駆除のための農薬散布をし、栄養促進のための肥料をまいて奇妙な果実を作り出しているわけです。あるいは、みことばをまいていはいるが、それをわけのわからない木の箱やアルミホイルか何かで包み込んで土に埋めているのです。埋められた地表には、「誰がそれをまいたのか」という札がかかげられる。これでは立て札は残りますが、芽は出ません。きちんと種をまけば、後は夜寝て朝起きていれば、「そうこうしているうちに」実るものは実るのです。みことばはそう言っています。そうやって出来るものが「神の国」であって、栄光は神にのみあります。人が苦労して築き上げるものは所詮「人の国」です。だから栄光は人が取り合うのです。そこには恨みがあり、妬みがあり、分裂や争いがあります。
細かく、4種類の土地の様子を見ていきましょう。種は4種類の土地に落ちて、それぞれの結果をもたらしています。落ちた種は同じです。まず道ばたに落ちた種です。道ばたに落ちた種は、すぐに鳥が来て食べています。種を食べてしまう鳥はサタンです。サタンは私たちがみことばに触れることをいやがります。サタンは私たちのあらゆる力にまさっています。サタンが唯一私たちにおじけづく場合は、私たちがみことばを握っているときです。サタンが全力を出し切ってもみことばには勝てないのです。ですから、サタンは「すぐに」みことばを食べにやってきます。私たちがそれを悟って行動に移すより前に、心から取り去ってしまうのです。次に土の薄い岩地です。この地に落ちると、みことばを喜んで受け入れると書かれています。経験や考えの浅い人は、わりと抵抗なくみことばを聞き、好意的な反応を示すことが多いものです。みことばの本質的な意味が理解できないからです。しかし、みことばを受け入れることが暮らしの中で具体的なリスクを負うことがわかると直ちに離れていくのです。人間には暗い土の中に根をはるような深い経験が必要です。人間としてのそうした基礎的な経験がない者の心に種がまかれても、種の本当の価値はわからないので、ちょっとした困難に出会っただけで簡単に手放してしまうわけです。「土が薄い」ことと「根がない」ことには深い関連があります。豊かな土の中でゆっくり根をはるような期間を軽んじてはいけません。イエスさまのナザレでの30年間は、まさにそうしたことの重要性を証しておられるわけです。この根に関するお話はクリスマスのメッセージの中で詳しくお話しましたね。
続いての種はいばらの中に落ちた場合です。彼らはみことばを聞いてはいるが、世の心遣い、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので実を結ばないと言われています。私たちがイエスさまから離れる気はないのに、実を結べていないという場合は、このいばらのパターンにはまっているのだと考えてよさそうです。いばらが生えてきたのは、人が神のみことばを軽んじて善悪の知識の木の実を食べたからです。(創世記3:18)はっきり宣言しておきます。いのちによらなければ、いばらは駆除できません。善悪のモードでみことばとこの世の様々な条件をてんびんにかけて比べているなら、最終的にみことばは必ず後回しにされます。「みことばはこう言っているけど・・・・・」という、後に続く自分の見立てや見解の部分を捨てられないでいると、みことばではなく、自分にとって少しでも納得のいく現実的な選択をしているはずです。事実、そのような選択を積み重ねて多くの失敗をしてきたのではないでしょうか。ですから、何か問題がおこったとき、「どうしようか」とあれこれくよくよ悩んだり、誰かに相談したりするのは実は無駄なのです。答えはいつだってはっきりみことばの中にあるし、そこにしか本当の解決はありません。私たちは薄々そのことがわかっていながら、「みことばに従う以外の方法」で問題を解決しようとしてしまうものです。しかし、そういうことがないように、イエスさまも同じ種類の誘惑を受けてくださって、神の子としてではなく、人の子としてサタンに勝利する方法を示してくださいました。イエスさまの勝利の方程式は単純です。それは「みことばにこう書いてある」とサタンにむかって宣言することでした。ただし、みことばに何と書いてあるか知らなければ、「みことばにこう書いてある」とは言えません。アダムとエバの失敗には、善悪の知識の木を食べる以前にその原因はありました。それはみことばは軽視していたことでした。みことばを軽んじることは、自分自身を損なうことになることをしっかり肝に銘じるべきです。私たちの心の最も良い地にみことばの種が落ちていることが大事なのです。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は本当に言われたのですか」(創世記3:1)というサタンの誘導的な問いに、エバはまんまとひっかかってしまいました。エバは神がおっしゃっていないことばを付け加えました。「それに触れてはいけない」という一語です。神は「触れてはいけない」とはおっしゃっていません。そして「必ず死ぬ」が「死ぬといけない」に変わっています。(創世記2:17,3:3)何となしのいい加減な記憶では、みことばの専門家であるサタンの誘導にひっかかるのは当然です。まさにサタンの思うツボです。
最後に良い地です。私はイエスさまを受け入れ、毎週教会に来てメッセージを聞いているのだから、私は「良い地におちた」グループに入ると思って読み流しているとしたら、この箇所から学ぶ意味はありません。私たちに落ちたみことばが果たして良い地に落ちたかどうかは、結ぶ実によってわかります。勿論その規模はそれぞれ違いますが、少なくとも30倍、場合によっては100倍の実を結ぶと書かれています。みことばの聞き方の基本は、繰り返してお伝えしているように、ベタニヤのマリヤと母マリヤの中にあります。鍵は、「足元で聞く」「思いめぐらす」の2つです。
4種類の土地は必ずしも4種類の人を表しているわけではありません。ひとりの人の心がある時は道ばたのように、ある時は岩地のように、ある時はいばらに覆われたようになるでしょう。しかし、どのような土地も良い地として耕される可能性があります。私の仕事は小学校の教員です。教師の仕事は「子どもの心を耕す仕事」だと思っています。効果をすぐに期待して、やたら子どもを厳しく管理し、自分の価値観で振り回す先生もいますが、これでは良い結果はまず出ません。種を蒔いても収穫はすぐには期待出来ません。そのように神様が種をプログラムされたからです。「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」(ヤコブ5:7)自分の3人の子どもたちにも、教会の子どもたちにも、みことばを受け止める良い地を作るほうが、狭くて浅い土を種だらけにするより大切だと信じています。しかし、芽が出て実を結んでこその種です。私たちの教育の結果は、10年後20年後に明らかになります。
最後に種まきに関するみことばをもうひとつ。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束を抱え、叫びながら帰って来る。」(詩編126:5~6)なぜ、簡単な種まきなのに種蒔く人は涙を流し、泣きながら出て行くのでしょうか。今日、みことばをそのまま蒔くことがあまりにも無駄で効果がないように思われるからです。みことばを重んじていますか。「みことばは大事です」と正解を言うことが重んじていることではないですよ。残念ながら、まだまだみことばがはそれにふさわしく重んじてられているとは言えません。
投稿者 emi 時刻: 22:10
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by kakosalt | 2013-03-13 09:13 | イエスのたとえ話 | Comments(0)

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