イエスのたとえ話19 花婿を迎える十人の娘のたとえ マタイ25:1-13

イエスのたとえ話19 花婿を迎える十人の娘のたとえ マタイ25:1-13

花婿を迎える十人の娘のたとえ (イエスのたとえ話⑲)
    マタイ25:1~13

A 地上における最も重要なモデルとしての結婚
  ○創世記の結婚(創世記2:7~8,18~25)
  ○黙示録の結婚(黙示録19:6~9)
  ○雅歌・・・キリストと教会の甘美な交わり
  ○カナの奇跡
     →イエスは結婚を祝福される
     →イエスを招くことによって結婚の質が変わる  
  ○雛型の崩壊

B アダムとイエス
  ○創造の中に「贖い」が含まれている
  ○アダムの深い眠りとイエスのわき腹の傷
  ○教会の存在価値
  ○一心同体という摂理・・・アダムとエバには離れる父母はいない
  ○優先順位

C 手紙が解き明かす奥義
  ○元はひとつ(ヘブル2:11)
  ○世界の基の置かれる前から(エペソ1:4)
  ○聖く傷のないものとして立たせる(エペソ1:4 , 5:27)

D 花婿を迎える十人の娘のたとえ(マタイ25:1~13)
  ○終末における忠実な管理と準備というテーマで語られたたとえ話     
     「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」(マタイ24:45~51)
     「タラントのたとえ」(マタイ25:14~30)
  ○王の披露宴のたとえとのつながり
  ○ポイントは油を準備したかどうか
  ○各自がキリストから受けた油によって教えを受ける(Ⅰヨハネ2:27)
  ○油は私たちが神のものであることの保障(Ⅱコリント1:21~22)  
  ○待つことで試される信仰と愛(Ⅰペテロ1:8)(Ⅱペテロ3:3~4)   
     「主人はまだまだ帰るまい」(マタイ24:48)    
     「よほどたってから」(マタイ25:19)  
  ○ただキリストにとどまること
投稿者 emi 時刻: 21:32




先日といっても何週か前の放送だったと思いますが、NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ていると、将軍家定がハリスに会見する際に篤姫の同席を許すシーンがありました。正室と言えど、女性が重要なまつりごとに関わるというのは過去に例のないことでした。とまどう篤姫に対して、家定はこう言います。「夫婦は一心同体者じゃからな・・・」 いくら篤姫の存在が家定の心を動かしたとはいえ、江戸時代に、しかも徳川家の将軍がそのような感覚を持っていたとは思えないので、それは脚本家の過度な脚色ということですが、ドラマの台詞としてはとても美しいものでした。
今日は「結婚」のお話をします。霊的な「実体」や「本質」を写したこの世におけるあらゆる「型」や「影」の中で、最も重要なもの、それは間違いなく結婚です。もう少し広げて言うと、夫婦関係、あるいは、結婚に至る男女の関係ほど重要なモデルは他にありません。それはキリストと教会の関係を表現している地上で最も美しい雛型なのです。聖書はアダムとエバの結婚に始まって、キリストと教会の結婚で終わります。そして、聖書の中で最も深く味わい深い書簡は「雅歌」です。ここには男女の心の機微を通して、キリストと教会の交わりの甘さ切なさが巧みに描かれています。まさに奥の間、至聖所の交わりです。さらに、忘れてならないのは、イエスのキリストとしての最初のしるしが、結婚式において水をぶどう酒に変えた奇跡だったということす。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。」(ヨハネ2:11)と書かれていますが、ヨハネは「水をぶどう酒に変えたことが栄光だ」と言っているのではないでしょう。このしるしがイエスの栄光である理由はふたつあります。イエスは結婚を祝福されるということ、イエスを招くことによって結婚の質が変わるということです。つまり、キリストの血による花嫁の贖いこそ真実の結婚であり、そのことを知るなら、雛型である地上の結婚も同時に豊かにされるということです。もし、この結婚にイエスが招かれていなければ、ぶどう酒は祝宴の最中に底をついたままです。まさにふたりの喜びの絶頂のときに、面目を失うことになったはずです。このようにイエスを招かない結婚は、悲しい結果をもたらしています。今日ほど、結婚が軽んじられ、男女関係がデタラメになっている時代は過去になかったのではないでしょうか。目に見える雛型の崩壊は、霊的な姿を反映しているのです。
それでは、最初の結婚について少し詳しく見てみましょう。(創世記2:7~8,18~25)アダムは土のちりで形造られ、神のいのちの息をふきこまれることによって生きものとなりました。それから、アダムはその与えられた能力によって、あらゆる野の獣や空の鳥に名前をつけました。しかし、その中に、ふさわしい助け手は見つかりませんでした。そこで、アダムに深い眠りが与えられ、そのあばら骨からエバが生まれます。これは、最も重要な創造であり、この創造の中には実は「贖い」が含まれています。神は男と女を一度に造られたのではなく、男を造ってから女を造られました。女は男のあばら骨から生まれたことが大事なのです。女は男のあばら骨から造られたから、男より格下だというイメージは間違っています。なぜ「あばら骨」なのでしょう。あばら骨はからだのどの部分にありますか。わき腹です。ご承知のように、イエスのみからだには、そのわき腹に傷跡があります。両手両足の傷は、十字架にかけられたときのものです。わき腹の傷はイエスの死を確認したときに出来たものです。アダムに与えられた深い眠りは、イエスの死を表しています。エバがあばら骨から造られたことは、教会はイエスが死なれたからこそ、そのいのちが分与されたこと、そして、エバはもともとアダムの一部であったことを表現しているのです。女は男の格下どころか、女は男にとってかけがえのない宝であることを現しているのです。
エバが造られたとき、アダムはこう言っています。「これこそ、今や私の骨からの骨、私の肉からの肉、これを女と名付けよう。これは男から取られたのだから。」(創世記2:23)さらに、みことばは続きます。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。」(創世記2:24)この記述はとても妙なんですが、お気づきでしょうか。なぜならアダムには父母はいないからです。アダムとエバは母から生まれたのではありません。にも関わらず、わざわざ「その父母を離れ」とあるのは、アダムとエバだけでなく、これから生まれてくるすべての男女に定められた結婚という摂理の深さ、偉大さを示すためです。それほど、結婚というのは大事なことなのです。イエスもこのことばを引用されています。一心同体ということばは、花婿であるキリストと妻である教会の一体を表現しています。心は一つで体もつながっている運命共同体ということです。「父母を離れ」の前に「それゆえ」ということばがあります。「それゆえ」とは、「何ゆえか」というと、「アダムからとられたから、エバはアダムとひとつになるのだ」と言っているのです。つまり、エバはアダムから取られたことにその存在価値があります。教会はキリストから生まれたことに存在価値があるのです。「その父母を離れる」とは、家族や血縁の関係性よりも、「信仰」を優先し、神の摂理に委ねるべきであることを教えています。それは、冒頭にも申し上げたように、「結婚」及び「夫婦のあり方」こそが、キリストと教会を表現する最も重要なモデルだからです。母子関係も重要です。父子関係も重要です。友人関係も重要です。主人と労働者の関係も重要です。友人や隣人との関係も重要です。しかし、最も重要なのは夫婦の関係です。この優先順位がバラバラの人は、必ず一番重要な的をはずしており、祝福を失います。まずキリスト、それから夫婦、そして子ども、さらに友人、隣人、地域社会です。キリストが第一は言うまでもないことですが、「家族をほったらかして人類愛」とか、「夫婦関係よりもまず子ども」とか、そういうのは間違いです。教会はキリストのわき腹の傷から生まれます。そして、それゆえにまたひとつとなります。「聖とする方も聖とされる者たちも、すべて元はひとつです。」(ヘブル2:11)これもまた驚くべきみことばです。私たちは「世界の基の置かれる前から」選ばれている(エペソ1:4)という信仰を持つことの大切さについては、以前にも少し触れましたが、パウロがこのように宣言する背景には、「花嫁としての選び」のイメージがあったことは明らかです。この箇所に出てくる「聖く傷のないものとして立たせる」(エペソ1:4)という表現が、キリストと教会の関係を夫と妻の関係にたとえて語られた5章にもう一度現れます。(エペソ5:27)それほど男女の関係というのは、神の御前に尊いものなのです。創世記のこの記事は、単純に人の誕生についての神話的記述ではありません。それは教会の誕生のモデルなのです。新約聖書の光を当てて、信仰をもって、旧約聖書を読んでいくと、見えてくるものが全く違います。そういうみことばの学びの習慣がつけば、目に見える世界の事実から目に見えない世界の真実を読み取る目が養われるはずです。人間が造られる前、御子イエスの助け手は、被造物の中にはありませんでした。人間が造られる前に、人間よりも能力の高い被造物はいました。神の御使いです。ルシファーを中心とする反逆した御使いたちの創造や彼らへの処遇については、聖書の中に書かれていること以外はわかりませんが、聖書を信頼するなら、なぜだかわかりませんが、私たち「人間」という存在が、神の計画の中心におかれ、教会を御子の花嫁として選ばれたことは事実です。この啓示を示された者は、みな感嘆の声をあげたのです。(詩編8:1~9)聖書は完全な書物ですが、聖書が神の創造やイエスのみわざのすべてを語り尽くしているわけではありません。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」(ヨハネ21:25)(ヘブル13:22)
「花婿を迎える十人の娘のたとえ」(マタイ25:1~13)は、「結婚」をテーマにしていますが、もうひとつの切り口から見れば、「終末における忠実な管理と準備」というテーマで語られた3つのたとえ話のうちのひとつです。「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」(マタイ24:45~51)と「タラントのたとえ」(マタイ25:14~30)がこれを挟むかたちで編集されています。このような書き方は、ユダヤ独特の様式で、マタイはこの手法で福音書を編集するように導かれています。この「花婿を迎える十人の娘のたとえ」は、「王の披露宴のたとえ」とつながりがあることもわかります。ともに婚礼の祝宴について語っています。花婿を出迎える娘とは花嫁のことです。ユダヤでは婚約をしてから約1年を経て、婚礼の祝宴を催し、結婚生活を始めます。イエスさまの養父であるヨセフの場合、マリヤがこの婚約中に妊娠が発覚したわけです。
花婿を待つ十人の娘のうち五人は愚かで、五人は賢かったと書いてあります。愚かな娘たちと賢い娘たちとの差は何でしょうか。一人ひとりの容姿や性格、能力や適性については何も触れていません。ポイントはただ一点です。それは、「油を準備していたかどうか」という点です。ともしびがあっても油がないと、当然火は消えてしまいます。ともしびと油とは何を象徴しているかはおわかりですね。ともしびは「みことば」であり、油は「聖霊」の象徴です。「みことばは霊でありいのちです」(ヨハネ6:63)まず、みことばがなければ話になりません。しかし、それだけでは不十分です。油が必要です。「各自」が「キリストから受けた油」によって教えを受けます。(Ⅰヨハネ2:27)これは、極めて重要なポイントです。ご承知のように、油を強調する集団はいっぱいあります。しかし、彼らはみことばに無知です。さらに、ヨハネのことばのとおり、各自がキリストから受けた油によってキリストにとどまるのです。「特別な油注ぎの器から教えを受けて、その先生にとどまる」などと書いてある箇所はどこにもありません。そういうことを言っている人たちは、このたとえからも除外されているんです。ここで、出てくる十人の娘はみな例外なくともしびを持っているんです。そのうち五人は油をもっていない。残りの五人はともしびに加えて油も持っています。油だけ持っている娘はいません。
油は私たちにみことばを教えるだけではなく、私たちが神のものであることの保証です。「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(Ⅱコリント1:21~22)花婿の到着は夜中になったと書いてあります。「到着が遅れる」という点は、この終末のたとえ3つに共通する設定です。「忠実なしもべと悪いしもべのたとえ」では、「『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思った」と書いてあります。「タラントのたとえ」でも、「よほどたってから」しもベの主人が帰ってきたと書いてあります。これは、重要なポイントです。長い時間待たされることで試されたものは何でしょうか。それは「信仰」であり「愛」です。今目の前にないものをどれだけ信じて愛せるかということが問われているのです。若い男女の恋愛においても、学校や職場が変わって長距離恋愛と呼ばれる状況になると、心が冷めたり、どちらかが裏切ったりということがおこります。離れていること、遅れていることには意味があるのです。「あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことの出来ない、栄えに満ちた喜びに踊っています。」(Ⅰペテロ1:8)ペテロは、祝宴の喜び待ちながらにして味わっている様子を描写したのでしょう。同時にペテロはこうも語っています。「次のことを知っておきなさい。終わりの日にあざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか、先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」(Ⅱペテロ3:3~4)ペテロは、イエスさまから聞いたいくつかのたとえを思い出しながら、このふたつのことばを手紙に記したのです。愚かな娘たちの最大の愚かさは何でしょうか。それは賢い娘たちから油を買おうとしているところです。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは、消えそうです。」(マタイ25:8)賢い娘たちはどう言っていますか。「いいえ、あなたがたに分けて上げるにはとうてい足りません。それより店に行って自分のをお買いなさい。」(マタイ25:9)油は誰かから売ったり、買ったり出来ません。油は自分で個人的に準備するものです。油はただ「キリストにとどまること」を教えます。(Ⅰヨハネ2:27)
投稿者 emi 時刻: 20:12
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by kakosalt | 2013-03-30 00:37 | イエスのたとえ話

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