イエスのたとえ話25 宴に招かれたなら ルカ14:7-24

イエスのたとえ話25 宴に招かれたなら ルカ14:7-24

宴に招かれたなら (イエスのたとえ話 25 )

 ルカ14:15~25

A 救いとは
  ○ この世においては・・・・古きものの変化にすぎない
     ・ 大きな悩みが解決した
     ・ 気分が楽になった
     ・ 何かに励まされた→状況の改善→考え方や生き方の転換 
  ○ 聖書においては・・・・全く新しい創造
     ・イエス・キリストの血による贖い
     ・永遠のいのちの地上での始まり
     ・生まれ変わり

B 救いを証するもの
  ○ 正しい告白(ローマ10:8~10)
  ○ 内なる喜び(ヨハネ16:22~24)  
  ○ イエスへの愛(Ⅰペテロ1:8)

C 宴会のたとえの背景
  ○ 上席を選んで座ろうとする人たちの心にあるもの
  ○ 神の国で食事をする人の幸いとは?

D 宴会の心得
  ○ 招かれたら末席に座れ
  ○ 招くときにはお返しの出来ない人を招け

E  断る理由    
  ○畑を買った(Ⅰコリント3:9)    
  ○牛を買った(詩編147:10~11)    
  ○妻を迎えた(エペソ5:32)    
         ↓ ↓
  「神なしでやっていける」という傲慢
  「神と一緒だと窮屈」という誤解  
投稿者 emi 時刻: 11:17



救われるとはどういうことでしょう。私たちが普通「救われた」というとき、「大きな悩みや問題が解決すること」を指したり、広い意味では、「気分が楽になった」とか、「何かに励まされた」とかいう場合も使ったりします。しかし、聖書で言う救いとは、「イエス・キリストの血による贖い」であり、「永遠のいのちの地上での始まり」です。救いは、私たちの存在そのものに関わる問題であって、単に考え方や生き方が変わるとか、状況が改善されるとかということとは全く違う次元の話です。当然、罪の贖いや新しいいのちの結果として、「考え方」や「生き方」も大きく変わりますが、それはあくまでも、後からごく自然に「そのこと自体を目的とせずに」達成されるのです。
もう少し具体的にお話していきましょう。先週、引き取り手のない犬の飼い主を求めてお越しになった方がいましたが、彼の第一声は、「ここはキリスト教の教会ですよね・・・・」でした。それから、「事情のある犬を引き取ったけれども育てられない」というお話をされました。彼の中にあるキリスト教会のイメージが、散歩中の彼の足を止め教会の扉を開けさせたわけです。そのイメージとは、「教会は人を大切にするところだろうから、動物のいのちだって守ってくれるはずだ」というものです。言ってみれば、人助けや・・・今回のケースは犬助けですが・・・こういう小さな徳を積み重ねるところが、彼にとっての教会なのです。その人が別に悪いわけでも軽薄だと言いたいわけでもありません。しかし、多くの場合、教会を訪れる人は、まるでタウンページでふすまの張り替え業者を探すように、個別の悩み解決のためにやってくるわけです。誤解がないように念を押しますが、勿論それはとっかかりとしては間違いではありません。イエスに自分から近づいて行った人たちは、病をいやして欲しかったり、目が見えるようになりたかったりという願いを持っていました。キリストにこのことをしてもらいたいというのは、キリストにそれが出来ると信じている点において意味があります。また、「わたしに何をして欲しいのか」という問いは、絶えず主から私たちに対しても向けられています。しかし、逆にそれは「わたしへの要求はそれだけでいいのか」「一番優先すべきことはそんなことか」という内容も含んでいます。
その犬の件については、聞かれていた方もいたと思いますが、私は次のように答えました。「教会はかわいそうな犬のお世話をするところではありません。教会の働きとは関係ないけれど、力になってくれそうな友人が数名いるので声をかけてみます。」犬の飼い主が見つかりさえすれば、彼が教会に来る理由はなくなってしまうでしょう。結果はどうなるかわかりません。彼は犬の飼い主を見つけて「助かった。救われた」と言うようになるかもしれませんが、それだけでは、彼のもっと本質的な問題は何も解決していません。同様に、英会話やゴスペルで生き甲斐や充実感を味わったとしても、麻薬やアルコールやギャンブルの依存症が治っても、いわゆる教会の奉仕とやらに精を出しても、それが、単に「考え方」や「生き方」のレベルにとどまっているとしたら、「犬の飼い主が見つかった喜び」と大差ないのです。それは悪いことではありませんし、彼のやさしさはむしろ賞賛すべきですが、それは、人生の最優先課題ではないということです。今日の話の核になるのは、この最優先課題です。最優先課題とは、言うまでもなく、「罪の贖い」であり、「生まれ変わり」です。これは「一時的な喜びや解放感」ではなく、「永遠に育まれていく愛」です。神は唯一であって、私たちは、現在生きて働かれるイエスを愛しているのです。「神を愛すること」これがすべてなのです。仏教徒は釈迦を尊敬し、その教えを大切にしていますが、釈迦を熱烈に愛しているわけではありません。また、多くの自称クリスチャンも「教会で祈りを捧げるわたくし」を愛しているだけで、本当の救いは、拒み続けています。十字架はファッションではありません。人間が首にぶらさげるものではなく、人間がそれに磔けられねばならないのです。心が楽になっても思想が充実しても救われません。人間の本質は霊です。人間は霊的な存在です。救いは霊的な変化です。では、私が救われたかどうか、ある人が救われているかどうかは、どうしてわかりますか。天からメンバーシップを表すゴールドカードが降ってくればわかりやすいし、そのしるしやナンバーを確認しあえれば、本物と偽物はもっとはっきりするでしょうが、そんな便利なものは降ってきません。だから、不安になって教団にメンバー登録したり、献金を納め続けたり、洗礼証明書を発行したりするのでしょう。私たちが救われているかどうかを証するものは3つしかありません。そして、それはどれも目に見ることも、手に取ることも出来ません。私たちの証は、「みことばに基づいた正しい告白」(ローマ10:8~10)と「奪われることのない内なる喜び」(ヨハネ16:22~24)そして「イエスへの愛」(Ⅰペテロ1:8~9)です。それ以外は存在しないし、存在してはいけないのです。救いとは、霊においてイエスとひとつになることであり、私たちがその次元で救われているかどうかは、イエスに対する愛によって確かめられるとペテロへ言っています。先程も申しましたが、この3つ目が決定的な決め手です。告白のまねごとや、喜びに似たものには、自分や周囲を錯覚させるほどのフェイクが通用してしまうことがありますが、「イエスへの愛」は誤魔化しようのないものです。ところが、それだけでは満足出来ない人があまりにも多いので、わけのわからない宗教が生まれ、その中に封じ込められていくわけです。先週のたとえの舞台は、レビこと、取税人マタイが催した大ぶるまいの宴会でしたが、イエスも非常に不思議な「宴会のたとえ」を少なくとも2回以上話されたようです。そのひとつをマタイが、もうひとつをルカが紹介しています。今回はルカの福音書から見ていきましょう。(ルカ14:15~24)来週はマタイの福音書を見ます。要点はこうです。「ある人が盛大な宴会を催しました。いざ用意ができて招待客を呼びにいくと、それぞれに事情を言って断り始めます。その事実をしもべから知らされた主人は怒って、新たな招待客を集めるよう命じました」これはまた非常に妙なたとえです。そうまでしてこの宴会を拒む理由が何かがあったのでしょうか。予め招かれていた大勢の人たちが、申し合わせたかのように、苦しい言い訳をして何とか出席を避けようとしています。こんなおかしな宴会は聞いたことがありません。招待客にそろってドタキャンされるような宴会は、一般的に考えれば、企画そのものに無理や問題がありそうな感じがします。例えば、この話を聖書も何も知らない小学生に聞かせたらどういう反応をすると思いますか。「なんて横暴でわがままな王様だ。きっと領民に意地悪ばかりしていたから嫌われたにちがいない」と言うでしょう。普通に考えればそうです。招待客が何としても宴会に出席したくない理由はどこにあるのでしょう。理由として考えられることは、「主催者の人柄がよほど悪い」「宴会が窮屈で楽しくない」「参加すると何らかのリスクを負わされる」というようなものです。他のたとえも、普通に考えるとどこか設定や展開が奇妙であるように、このたとえも相当おかしなものです。「救いを拒む人を責める」のであれば、もう少し気のきいたたとえも出来そうなものです。しかし、イエスはそんなことはすべて承知の上です。その上であえてこのたとえをされたことには意味があるのです。
このたとえは、ある宴会で招待客が上席を選ぶ様子に気づいて注意を促された後に語られたものです。(ルカ14:7~14)そして、直接的には「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(ルカ14:15)と言った人のことばを受けて語られています。このふたつの話を関連づけて読まなければ、細かい読み違えがおこるので、心に留めておく必要があります。みことばを自分勝手につぎはぎしてはいけません。その背景をしっかり理解し、全体の文脈の流れの中で部分を見ていく必要があります。そして、聖書の他の書簡との整合性、そしてその教えが人となられたイエスの人格にふさわしいものであるかどうかを丁寧に検証しなければなりません。今回はまず最初に結論から言ってしまいますが、このふたつのたとえが教えているのは、「招待してくれた人の気持ちや、ともに集う人の気持ちを顧みずに、自分の座る席を気にしているような者は、絶対に神の国の食事を味わえない」ということです。この上席を取り合った宴会は明らかに招いた側も何らかの見返りを期待してのものであり、レビが催した大ぶるまいとは性質は違っていたようです。ですから、「宴会に招かれたなら、上席ではなく、末席から埋めていくように」(ルカ14:10)また、「誰かを招くならお返しが出来ないような貧しく弱い立場の人たちを招くよう」に言われたのです。(ルカ14:12~13)この後半の部分が、後で語られるたとえの中で、最終的に招かれた人たちが、お返しの出来ないような人たちであったことと重なっている理由もおわかりいただけると思います。続いて、宴会を断った人たちの理由を細かく検証しましょう。まず、一人目です。「畑を買ったので、見に行かなければなりません。」(18)みことばによれば、私たちが神の畑であって、神御自身が農夫です。私たちが全く別の収穫を期待した畑を持つことは出来ません。その畑が私たち自身であっても、神に耕されることなく、神から離れて自己管理することは出来ないのです。(Ⅰコリント3:9)二人目の人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」(19)と言っています。要するに神以外の力を金で買い、それを最優先したことに問題があります。象徴的な意味はともかく、実際の畑仕事のために、計画的に牛を買うことは間違いではないし、むしろそれは正しい管理です。仕事をする代わりに一日部屋で祈っても収穫などありません。実際には人なり牛なりがきちんと働いてこそ実りが得られるわけです。ダビデも訓練された家来を持ち、自らも戦士としての技能を保ち、戦いの際には馬や戦車を利用しました。しかし、それを勝利のための必要十分条件とは考えていませんでした。救いや勝利は主の御手の中にあると知っていたのです。(詩編147:10~11)三人目の人は、ちょっと違った理由です。「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」(20)聖書は結婚を否定し、夫婦の絆を引き裂くものなのでしょうか。全く逆です。結婚については、「夫婦は一心同体で、神が結びつけたものを離してはならない」とまで言われています。それでは、何が問題なのでしょう。それは、夫婦のつながりから神を除外したことです。夫婦が一心同体であるのは、あくまでもキリストと教会にあってのことです。(エペソ5:32~33)これはみことばによるのではなく、個人的な観察による私の勝手な思いですが、人間的に愛の強い人は、愛の純粋さを求める人は、結婚生活がうまくいかないケースが多いにように思います。結婚生活は、その雛型があまりにも素晴らしすぎて、神さまのいのちの満たし抜きでは到底やりくりしきれないのです。これは私の個人的な考えではなく神のことばです。キリストと教会の雛型であることを信仰によって意識することになしに、お互いを「本当に尊重し愛し合うこと」は、絶対出来ません。妻のことを、「これは私の骨からの骨。肉からの肉」と讃え尊んだとしても、何かがおこったときに、相手を責めるのが人間です。最初はお互い裸でも恥ずかしくなかったのに、お互いに恥部を覆いました。それは、神のまなざしに耐えられなかっただけではなく、お互いのまなざしにも耐えられなかったのです。なぜなら、人は善とは何であるかを知ってしまったからです。新婚を理由に宴会の出席を拒んだ人がどうして責められなければならないのかもおわかりいただけたでしょうか。それぞれ宴会の出席を拒んだ理由はさまざまですが、三人に共通して言えるのは、「神なしでやっていける」という傲慢、「神と一緒だと窮屈」という誤解です。彼らは予めの招待客であって、主人の人柄や宴会についてある程度の予備知識があった人たちです。だからこそ、宴会主催者の怒りは大きいのです。彼らの代わりに招かれた人たちは、招かれる理由も資格もなかった人たちです。私たちの救いはこの末席から始まります。
投稿者 emi 時刻: 11:15
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by kakosalt | 2013-04-28 07:43 | イエスのたとえ話 | Comments(0)

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