約束の地カナン2 遊女ラハブの信仰

約束の地カナン2 遊女ラハブの信仰



 2月14日        ラハブの信仰(約束の地カナン②)

 今日は、イスラエルに滅ぼされるカナンの町にあって、奇跡的に自分自身と家族のいのちを守ることが出来たラハブの信仰から学びたいと思っています。
ラハブは何の後ろ盾もないひとりの弱い女性です。「ラハブは遊女であった」(ヨシュア2:1)と聖書ははっきり書いています。自分のからだを売るということは、女性にとっては最終的な武器です。逆に他には何もないということです。神の怒りによって全滅させられるカナンの町の最も小さな存在のひとりであったこのラハブが、ただひとり歴史に名を残すのです。それは汚名ではなく、輝かしい「信仰の人」としてです。「売春婦」と「信仰の人」という全く相容れないものがひとつになるのです。キリストの贖いによって、弱いものが強くなり、小さいものが大きくなり、汚れているものがきよくなるのですが、こうしたパラドックスが聖書の中には数多く仕掛けられており、それが大きな魅力になっています。

「売春婦」は最も古い職業とも言われ、古今東西あらゆるところに存在しました。今の日本の感覚でいう「売春婦」のイメージとは少し違います。当時のカナンには、それぞれの町の神々を祭る神殿がありました。それらの神殿には「神殿娼婦」といわれる人たちがおり、おそらくラハブもそのひとりであったと思われます。ヨシュアから遣わされた斥候も神殿娼婦の家なら外部の人間が気づかれず潜入するには好都合だったのでしょう。彼らは律法の民ですから、出張にかこつけて女を漁りに行ったわけではありません。
 
まずラハブが斥候をかくまって王の家来たちをはぐらかす場面は緊張感が伝わってくるし、斥候と契約を結ぶ場面からもラハブの気の強さと聡明さが伺えます。綱で窓から吊り下ろす場面などはまるで映画のワンシーンのようです。そんな粗筋を追うだけでも大きな動きがあるのでそれ自体をけっこう面白く読むことが出来ますが、そういう表面的な読み方では一番大事なメッセージを読み落としかねません。ダビデの生涯をイエスの地上でのあゆみのモデルと見なし、その心の動きを詩編から読み解いたように、新約聖書がラハブについてどのように書いているのかを見ていく必要があります。
 ラハブはいのちを賭けて嘘をついてまで、イスラエルの斥候をかくまって恩を売り、自分の信仰を態度に表しました。このことについて新約聖書は次のように語っています。
「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たとちといっしょに滅びることを免れました」(ヘブル11:31) 
 「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないのではないことがわかるでしょう。同様に遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが死んだのであると同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:24~26)                           
これらの鍵のことばをしっかり握って、ヨシュア記の記事を詳細に見ていくことにしましょう。(ヨシュア2:1~21)

ヨシュアは、ヨルダン川を渡る前にふたりの斥候を、カナンの地に送りこみました。ちょうど自分が、カナンの地に偵察に遣わされたと同じようにエリコの町を探らせたわけです。
古代エリコの町は、高さ10メートルもある城壁で取り囲まれていました。その城壁は二重になっていて、外壁の厚さは2メートル、内壁の厚さは4メートルもありました。両方の壁の間隔は5メートルあって、その間に木を渡して建てられた家によって連結されていたと伝えられています。「ラハブの家は城壁の中に建てこまれていた」(ヨシュア2:15)と書いてありますが、そういう建て方をしていたのだということで町の様子を想像してみてください。

 「イスラエルから怪しい二人組が潜り込んでいるようだ」という情報は、すぐにエリコの王の知るところとなりました。 ラハブがかくまったふたりが誰にも気づかれずにすむこともあり得た話ですが、残念ながらすぐに情報がもれました。
 王の使者としてラハブの家にやって来たのは、恐らく武装した屈強な兵士でしょう。「『あなたのところに来て、あなたの家にはいった者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから。』と言わせました。」(ヨシュア2:3)と書かれています。それは、まさに王のことばであり、王の命令です。
 ここで、ラハブが怯え、ひるみ、うろたえたなら、この後は全く違う展開になります。普通に考えれば、「自分のいのちを惜しんで斥候を引き渡す」という選択が一番現実的です。あるいは、様子がおかしいことに気づいた兵士が家の中に押し入って斥候を見つけるという可能性も十分あります。しかし、結果はそのいずれでもありませんでした。ラハブは迷わず、しかも堂々とこう言います。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。 その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう」(ヨシュア2:4~5)
これは、明らかに嘘です。同じ嘘をつく場合でも、大抵の女の嘘はこうなります。「このふたりの男が突然私の家に忍びこみ、『騒いだり、王に知らせたりしたら殺す』と言って脅されていたのです」これはラハブの機転というよりは、初めからの強い決意によるものです。遊女として多くのお客さんを手玉にとってきた経験もあったかも知れませんね。「偉そうに鎧着てたって脱いだらただの男じゃないの」って感じでしょうか。しかし、勿論それだけではありません。このことばの根底には、神に対する深い怖れがありました。このことをもってラハブは「信仰によって」偵察に来た人をかくまったと言われているのです。ただ、困っている人を助けたり、たまたまカナンに不満を持っていたのでイスラエルの味方をしたのではありません。イスラエルの神を怖れたた結果、信じた結果です。これは極めて重要なポイントです。
この際の一連のラハブの言動をめぐっては、「聖書は方便の嘘を肯定するのか」という議論もあります。こういう人は出エジプト記の産婆たちがモーセの出生の際にも嘘をついている(出エジプト1:19)などというのです。確かに話のネタとしては面白いでしょう。
しかし、最も大事なことは先程開いた新約聖書のふたつのみことばに集約されています。
ラハブが遊女であることも、イスラエルの斥候を保護するために嘘をついたことも、そのことによって同胞を裏切ったことも、自分と自分の家族だけの救いを求めたことも、決して道徳的、倫理的というわけではありません。
ただ、「信仰的」だったのです。神を恐れた結果、神を第一にし、それ以外を後回しにした。神を選んで残りを拒否したのです。この優先順位から学ぶべきです。
「信仰とは、ただ信じることでなく行動を伴うものだ」とヤコブは言います。その良き例として、このラハブを取り上げています。膨大な旧約聖書の事例の中で、なぜ、あえてラハブなのでしょうか。ユダヤの誇り、父祖アブラハムと並んでのキャスティグですよ。普通の感覚ではあり得ないことです。キリスト教の世界のセンセイ方の優劣基準で、このふたりが名を連ねることは
絶対ありませんね。聖霊がラハブの名を選んだのは、「信仰による行い」という点に関して大きな思い違いをしていることが多いからです。

ラハブが賞賛された行動とは何ですか。ラハブが遊女をやめ売春から足を洗うことを救いの条件にしたとは書かれていません。つまり、出家して聖い人になるとか、これまでの罪滅ぼしの功徳を重ねるという類のことは信仰でもないし、信仰による行いでもないということです。
ヨシュア記の記録に残っているのは、①イスラエルの主、遣わされたふたりの斥候を受け入れかくまったということ②斥候の指示したことばどおり、救いの印である赤いひもを窓に結んだということでした。この2点です。この後ラハブがどうなって何をしたのかは知りません。はっきり言えることは、聖書が賞賛しているのは、ただその2点についてであるということです。
そして、ヤコブがラハブを例にとって、これこそ主がお求めになっている信仰の行いなのだと言うとき、それ以外の何をも指していないのは明白ではありませんか。信仰の行いとは、道徳の教えに縛られて窮屈に生きることや、薄っぺらな義務感にかりたてられた宗教活動とは、全く何の関係もないのです。

主のことばを預かる者を受け入れ重んじたことは、主を受け入れたのと同じです。ラハブはこう言っています。「どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください」(ヨシュア2:12~13)
ラハブはイスラエルの主を信じた証として斥候をかくまったのだから、その信仰を受け入れたしるしとして救いの保証を得たいと訴えたのです。物凄い交渉能力です。主を信じるということは、主に求めることです。「信仰がなくては、神に喜ばれることは出来ません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)
ラハブは神のさばきのみならず、家族の救いという報いさえ信じていました。町全体が滅ぼされるような環境にあって、これは物凄いことだと思います。神が容赦なく滅ぼすと決意された町の遊女が何故このような信仰を持ち得たのか非常に不思議で、私には十分理解出来ません。しかし、ラハブはイスラエルとイスラエルの神の話を聞き、自分の町の現実を見渡したときに、みことばを選んだということだけは確かです。
斥候が与えた約束とは、赤いヒモを窓に結びぶら下げることでした。これは主がくださった偉大な印です。勿論、斥候は出エジプトの際の過ぎ越しの子羊の血に代わるものとして、それになぞらでたわけです。それはイスラエルと神を結ぶ絆であり誇りです。彼らは過ぎ越しは知っていましたが、十字架を知りませんでした。しかし、それらはいずれもイエスの血による贖いの美しいモデルであることを、私たちは味わうことが出来るのです。

その血による贖いのもとにある者は、誰であれ救われています。その人の人格や行動は一切関係ありません。神がご覧になるのは、贖いの中にある人ではなく、キリストの血です。
救われたラハブの一族と滅ぼされた他のカナン人は何が違うのでしょうか。この血の贖いの効力を信じたかどうかということ以外は、全く同じだと言い切ってもいいのでしょう。
「あなたがが救われたのは、キリストの血による」とはっきり書かれています。(Ⅰペテロ1:18~19)
しかし、人の世のキリスト教は、この血の力以外の力について語り、家の中では「ああするべきだ」「こうするべきだ」と言うのです。そして、となりの家にも「ああしろ」「こうしろ」とおせっかいをやき、挙げ句の果てに赤いひもを結ぶのを忘れるのです。これがキリスト教の伝道というやつです。何という愚かしいことでしょうか。教えなんかどうだっていい。大事なのはひもを結ぶことです。ラハブは何と言っていますか。「おことばどおりにいたしましょう」(ヨシュア2:21)この一言に尽きるのです。イエスの母マリヤは聖霊による受胎を告知した御使いガブリエルに対して「どうぞ、おことばのとおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と言っています。私たちの言うべきことばはこうであるべきです。あれこれ語る必要はない。神のことばに付け足したり、取り除いたりしてはならないのです。

エリコの陥落の時、救われたラハブはその後どうなったでしょうか。旧約聖書には再びラハブの名は見られません。しかし、新約聖書の一番はじめイエスの系図の中に再びその名前を発見します。「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた」(マタイ1:5~6)このサルモンという人物は、ラハブの家に行ったふたりの斥候のうちのひとりではなかったかという説もありますが、もしかしたらそうかもしれません。そのサルモンの子がボアズでモアブの女性ルツを妻としました。ルツはオベデの母となります。そのオベデの子がエッサイで、エッサイの子が昨年まで学んできたダビデ王です。滅ぼされるべきカナン人の遊女が、なんとダビデ王の祖先となったのです。つまり、キリストの母たちの母となったのです。
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Commented by qf8j-ri at 2013-06-18 21:19
感動しました。キリストキョウに関する一切の付属物を振り捨て赤いひもに徹して伝道します。身軽になりました。
Commented by lastsalt at 2013-06-18 22:42
コメントありがとうございます。キリスト教ではなくキリスト。これが鍵ですね。
by kakosalt | 2013-06-15 13:46 | 約束の地 カナン | Comments(2)

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