約束の地カナン3 ヨルダン川を渡る

約束の地カナン3 ヨルダン川を渡る



3月21日        ヨルダン川を渡る(約束の地カナン③)

出エジプトの指導者であったモーセによって「主は救い」という名を与えられた後継者ヨシュアは、ついにその約束の具体的な実現へと向けてアクションを起こします。ヨシュアがまず初めにしたことは、エリコに向けて2人の斥候を送ったことです。2人の斥候はエリコの町への潜入にあたり遊女ラハブの家を選びましたが、それは主の配剤によるものでした。つまり、主がなされたわざを伝え聞いて信仰をもっていたラハブのもとへ、主が斥候を送られたのです。ラハブは彼らを保護し主の怒りと裁きから免れるように救いの約束を得ます。 その約束とは、ヨシュアがエリコを攻める際に窓から赤い紐をたらしておくことにより、その攻撃から家族もろともに守られるというものでした。ここまでを先月学びました。今日はその続きです。

 ヨシュアたち一行は、翌朝にはシティムを経ちヨルダン川の川岸に3日間留まった後、いよいよヨルダン川を渡ります。祭司が契約の箱をかついで激流のヨルダン川に一歩を踏み入れると、川の流れはその上流で完全にせき止められました。そして彼らがみな渡り終えると、水は元の流れに戻ったというのです。こうして彼らは主の不思議なわざを記念して、川の中から12の石を穫りギルガルに記念碑を建てます。さらにヨシュアは民に割礼を施し、また過ぎ越しの生贄を捧げました。そしてこの後、ヨシュアは抜き身の剣を振りかざす謎の武将に出会います。武将はヨシュアに「聖なる地であるから履物を脱げ」と命じました。これらの一連の出来事は何を意味し、今日の私たちにどのようなメッセージを語っているのでしょうか。ラハブの赤いひもの一件は奇跡ではないので理解できますが、この川の流れがせき止められる記事、そしてこの後のエリコの陥落の物語は通常あり得ないことなので、信仰なしに読むならば、馬鹿馬鹿しい民族の武勇伝か、何かのたとえ話としてしか映らないでしょう。その後の不思議な武将とのやりとりも神話性を増すだけで、いったい何のことだかよくわかりません。ノンフィクションだと思って読むには無理があります。しかし私は勿論文字通りこのとおりのことが実際にあったのだと信じています。
 では、少しずつ読み進めて行きたいと思います。今日はヨルダン川を渡るところを取り上げます。(ヨシュア3:14~17)ここでの最初のポイントは、「信仰による一歩を踏み出すこと」です。現状に関係なく、みこころであれば前に踏み出すということです。彼らが前進したのは、目の前の川の流れがせき止められたからではありません。この順番は極めて重要です。流れている川に一歩めを踏み出す勇気、これが信仰による行動です。口で言うのは簡単ですが、実際の適用は極めて難しい。私たちは、さまざまに見込みを計算します。この勇気を保証するのは、決して無謀さではありません。みことばの裏付けが必要です。そして、水をせき止めるのは私たちではありません。イスラエルの人々が、高度の土木技術や無数の土嚢を投げ込む努力で流れを食い止めたとは書いていません。イスラエルの人たちは何もしていないのです。
 神は、単純に御自身のことばに信頼した人たちの従順を見て、その信仰に応えて、流れを止めてくださったのです。単純ですが、物凄いことです。これも、実際の適用においては、「私たちが第一歩目を踏み出すという私たちの分を成す」ことがかなりのウエイトを占めることがあるかもしれません。いずれにせよ、私たちは私たちの出来ることを行って明確な意思表示をする。それを主が助けてくださるのだということです。要するに一歩目を踏み出しがなければことは起こらず、一歩目が踏み出せれば後の不足はだれだけであろうと主が補ってくださるということだと思います。
水の流れがせき止められ、民全体が川を渡ったと書いてあります。どれぐらいの川幅や深さの水だったのかはわかりません。わざわざ川幅の広いところを渡るとは思えないのですが、場所と季節を考えると、ある程度の推測は出来るようです。「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが」(ヨシュア3:15)とも書かれています。実際の川幅にプラスして河川敷に相当する茂みがあったので、雪解け水と雨期の増水のため、川幅は1km近くにもなっていただろうと言われています。このような状況下に大人数で川を渡ると言うことは、冒険というより狂気の沙汰です。ところが神はここで超自然的な力によって、祭司たちが川に足を踏み入れている間、水をせき止められ、民が渡り終えるまでそのままに保たれたのでした。

「そんなことは起こり得ない」と科学者は言うでしょう。これは確かに「奇跡」なのです。しかし、私は「奇跡」というのは、私たちがこれまでに経験して「当たり前」になってしまった法則に則らない現象をそのように呼んでいるだけだと考えます。私は、ただ「川が流れる」ことだって不思議だな、まるで「奇跡だ」と思うのです。小学校では、4年生の理科で「流れる水の働き」という単元があります。「水には『削る・運ぶ・積もらせる』という働きがあって云々」と・・と教えるわけです。子どもだって、そんなこと習う前から大体知っていたし当たり前だと感じている子も多いのですが、私は教えるたびに「川というのは不思議なものだ」と感動するわけです。当たり前だと思っていることだって、十分に奇跡的だと私は思います。流れが止まることより、いつも流れていることって、実はもっとすごくないですか。当たり前だと思うほど日常的に恵みが溢れているのですから、神さまはよほど気前の良い御方だということではないでしょうか。
ですから、ただ教訓としてではなく、私は聖書の記述通りに実際に流れが止まったのだと受け止めているのです。「そんなことは私たちの知識や経験から考えて起こり得ないのだ」という科学者の意見に対して、信仰者は「そういうことも私たちの主に関する知識や経験から考えて十分起こり得る」と告白したいのです。

では、続いて霊的な意味についてともに分かち合いましょう。
私たちはヨルダン川のこちら側にいます。特に行きたいと思わなければ引き返す、あるいは川岸に留まることという選択肢があります。私たちは本当に向こう岸へ行きたいのでしょうか。また、行くべきなのでしょうか。危険をおかしてまで、リスクを負ってまで、私たちは向こう岸へ行きたいと思っているのでしょうか。後ろから追っ手が責めてくるわけではない。川の手前でも普通に生活できる。特に不自由も感じないし安全だ。そんなとき、わざわざ向こう岸に行きたいと思うでしょうか。渡ろうとしている列の中にいるとしても、私はどの程度本気なのでしょうか。これは、けっこう大事な質問です。私は自分の選択に対して意識的であるべきだと思っています。自分の選択に対して意識的でない人は、仮に信仰的な行動をともにしたとしても、その中身は空っぽなものになるでしょう。つまり、からだは川を渡っても、霊は溺れているという自体が起こり得るのです。ヨルダン川を渡ったイスラエル人ではなく、彼らの親の世代、つまり紅海を渡ってきた人々はどうだったかを考えてみましょう。彼らはモーセとともに、紅海を渡るには渡りました。確かにそのためにこそモーセはイスラエルという群れの為に立てられ、同時に彼自身もその群れの一部として行動しました。私は何十年にも渡ってこの信仰と群れの問題について考えて来ました。今日は、その中のいくつかを簡単に話します。
群れを構成しているのは個人です。しかし、個人は群れの中に簡単に埋没します。そして、群れは個人の不安や欲望を増幅します。アロンは民が混乱したのを見て、「主との関係性」よりも「群れの関係性」を優先して金の子牛を拝ませるという選択をしました。これが、アロンの大失敗です。結果を見てアロンを批判するのは簡単ですが、こういう場合に群れの中に充満するマイナスのエネルギーというのは物凄い力です。そうでもしないと、自分も殺されかねない状況なのです。アロンだって子牛を拝むことの馬鹿らしさや罪深さがわかっていないわけではなかったでしょう。しかし、面白いと思いませんか。子牛を拝ませたら、民は納得してまとまったのです。偶像が出て来て宗教を広めたら群れは一つになるのです。人間の罪や群れの性質というのはそういうものです。「イエスを十字架につけろ。釈放するのはバラバだ」とピラトさえ驚くようなことを叫ぶのです。
子牛を拝んで一致して盛り上がっているところへモーセが下りてくるわけです。モーセがもうちょっと早く下りて来てくれたら良かったのですが、皮肉にも神はこのタイミングでモーセを遣わされたのです。神は何もかもご存じです。神のみこころは、偶像を拝ませないことではなく、民の心の中にあったものを明らかにすることでした。無意識の思考ストップした民を信仰によらずに救うことではありませんでした。
そんな中で、モーセは群れ全体を巻き込んだ偶像礼拝にとりこまれることはありませんでした。神との関係性を優先し、たった一人で群れ全体に立ち向かいました。ここにモーセとアロンの決定的な違いがあります。

群れはみな同じようにエジプトを出て来たのですが、彼らは主を見ていたのではなく、モーセという指導者を見、前後左右の隣人に合わせ、祝福にあずかって何となく流されてきただけだったのです。言わば、イスラエルという「ムラ共同体」の「過ぎ越し」という行事に参加していただけだったのです。これは、外から見れば信仰的に正しい行動であってもただの宗教です。信仰ごっこに過ぎません。
神は侮られることのない御方です。荒野での様々な試練によってふるいにかけられた民の中で、最後まで主への信頼を失わなかったのは大勢の群れの中でヨシュアとカレブのたった二人だけです。私たちは集まります。「群れをなすこと」には、天にも似た祝福と地獄のような醜悪さというふたつの両極に至る可能性を秘めています。イスラエルの民は荒野でさまよって死ぬために過ぎ越しを経験したのでしょうか。しかし、荒野では実際に「群れることの悲劇」が展開されました。このイスラエルの不従順の歴史をキリスト教会が繰り返すことになりました。「集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い」(ヘブル10:25)というヘブル書の中に見られるすすめは、群れをなすことの危険をふまえた上で、何をもって集まり、その集まりを支えるものは何であるのかということを明確にすべきだと言うことではないでしょうか。

紅海を渡ったイスラエルの生き残りとその子孫は、ヨルダン川を渡ります。彼らは親の世代のの失敗を通して、みんなで渡るにしても一人ひとりが自覚をもって渡らなければならないということを思ったはずです。羊飼いは「羊をその名で呼んで呼び出す」と書かれています。群れではなく、一人ひとりが大事です。だから、99匹の群れを残して迷った1匹を探しに行くたとえがあるのです。イエスがベテスダの回廊に行かれたときも、「癒してあげるから病人は全員並びなさい」とは言われませんでした。38年間も病で煩っていた男ただひとりに、わざわざ「良くなりたいか」と問われました。「良くなりたいに決まってるじゃないか」と思うのですが、意外にそうでもないのが人間です。目の見えない人に向かっても、あえて「わたしに何をして欲しいのか」と問われるのです。つまり、個人が明確な意思をもって、みことばに応答することが期待されているのです。みことばを救い主からの個人的の呼びかけとして受け止め、誠実にそれに応答する。これが聴いたみことばが結びつく瞬間です。「群れ」はそのようにして召し出された個人の集まりでなければ堕落します。お互いがお互いを見ながら寄りかかっているようでは駄目なのです。賜物のあるリーダーや、そこに起こっている出来事を見ているだけ、その場の雰囲気を味わっているだけでは駄目なのです。
若い人は受験が終われば、また就職すれば、社会人なら仕事が一段落すれば、主婦なら子育ての手が離れれば、そうしたら本格的に主に従いますと言うかも知れません。しかし、そういう態度を主は望んでおられるでしょうか。私たちの日常の関心事は何でしょう。人間関係のこと、仕事のこと、暮らし向きのことでしょうか。
自分のいる岸や自分自身を見ているなら、川はそのままです。川をわたるタイミングは、川を見ていていては、いくら待っても来ないのです。主が迫るタイミングはいつもみことばを聴いた「きょう」です。もし、今日主の声を聴いたなら私たちはそれに応えなければなりません。聴いている人はたくさんいます。でも、責任をもって応答している人は意外に少ないのです。私たちは今何処にいるのでしょうか。アダムが罪を犯したときも主の呼びかけは「あなたはどこにいるのか」でした。ヨルダン川を渡ったのなら、私たちの足の裏はすでに約束の地を踏みしめているはずです。そこは善悪ではなく、いのちが支配する世界です。この変化、この違いはあまりにもドラマチックです。ヨルダン川は死の川です。それは人の力では越えられない深い淵のようです。死んだ金持ちが見せられた黄泉の世界を思い出してください。金持ちがいくら反省してもこの淵は越えられません。金持ちはアブラハムのふところにラザロを発見します。アブラハムのふところとは、信仰を相続するものの行き着くところという意味合いがあります。私たちは信仰によるアブラハムの子孫であり、「すでにその淵を越えている」のです。「死からいのちに移っている」のですから、向こう岸に渡った自分をイメージしてヨルダン川を渡ることが出来るのです。
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by kakosalt | 2013-06-21 23:33 | 約束の地 カナン | Comments(0)

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