約束の地カナン4 主の軍の将

約束の地カナン4 主の軍の将



4月25日          主の軍の将(約束の地カナン④)

ヨシュアたち一行は、ヨルダン川の川岸に3日間留まった後、ヨルダン川を渡ります。祭司が契約の箱をかついで激流のヨルダン川に一歩を踏み入れると、川の流れはその上流で完全にせき止められました。そして彼らがみな渡り終えると、水は元の流れに戻ります。
こうして彼らは主の不思議なわざを記念して、川の中から12の石をとり、ギルガルに記念碑を建てます。さらにヨシュアは民に割礼を施し、過ぎ越しの生贄を捧げました。そしてこの後、ヨシュアは抜き身の剣を振りかざす謎の武将に出会います。武将はヨシュアに「聖なる地であるから履物を脱げ」と命じました。

今日は前回触れられなかったところを補いつつ、「主の軍の将」という主題でお話します。
前回はヨルダン川の渡るイスラエルの群れにおける一人ひとりの信仰ということにフォーカスしたお話をしましたので、契約の箱のことにはほとんど触れませんでした。まず、契約の箱の動きを追ってみましょう。
契約の箱は、最初「群れの先頭」にあります。(ヨシュア3:3,6,11,14)ヨシュアはそのことを強調しています。聖書の記述もその位置を意識させるよう、繰り返して書かれています。はじめは2000キュビトの距離を置いているわけですが、民が渡り始めると契約の箱を持つ祭司たちは川の真ん中に立ち、民全体が渡り終えるまでそこに留まっています。ヨシュアは主の命令を受けて祭司たちに命じ、彼らがかわいた地に上がったとき、流れが元通りになったのです。(ヨシュア4:18)
契約の箱こそがヨルダン川を渡る鍵です。契約の箱がはじめであり、真ん中であり、終わりなのです。民がどんなに熱心な信仰を持って期待しても、この契約の箱がなければそれは全く無効であると言っても良いでしょう。契約の箱は、「神の臨在のしるし」であり「贖罪のあかし」なのです。契約の箱の中にはモーセの律法とマナの入った壺とアロンの杖が入っていました。それらはすべてイエスを表しています。契約の箱とともにあるからこそ、民はヨルダン川を渡りきることができたのです。私たちはイエスの信仰によって歩めるのです。イエスが信仰の創始者であり完成者です。

記念となった12の石は、ヨルダン川の底からとられたものです。それらはちょうど祭司の足の下にありました。「それは、地上のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたの神、主を恐れるためである。」(ヨシュア4:24) とヨシュアは言いました。
 キリスト者にとって、この記念の石とは何を意味するのでしょうか? それは、死と復活を象徴するバプテスマを思わせます。
 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」(ローマ6:4) とパウロは言っています。
 契約の箱すなわちイエスと、それをかつぐ祭司である私たちとは、ヨルダン川を渡ったことによって、キリストと私は結び合わされ、キリストの体験は私たちの体験となり、キリストの勝利は私たちの勝利となます。かくして契約は履行され、私たちは死からいのちに移ったのです。
民はこの霊的な体験の記念の石を立てた後、割礼を受けます。
このタイミングは大事です。ヨルダン川をわたった実質的体験があったからこそ、石を立て割礼を受けたのです。私たちの代々にわたる記念はすばらしいものです。主は私たちの罪を思い出されることはありません。しかし、私たちは繰り返し主の恵を数えることが許されているのです。

初代教会においては、ふたつの大きな問題がありました。ひとつは、救われるために割礼を受ける必要があるのかということ、そしてもうひとつは、偶像に捧げた肉を食べても良いのかといいうこということです。これは霊的には今日的なあらゆる霊的課題と結びついていまうs。
「割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に平安とあわれみがありますように」(ガラテヤ6:6:15~16)
かたちとしてユダヤ人になるための割礼など必要ないということです。実質を伴わない儀式やかたちは無意味です。それらは、あくまでも救われた結果としてのしるしなのです。そして、信仰は律法を終わらせるので、偶像に捧げられた肉に対しても自由です。これは肉の話ではなく世との関わり全般を意味しています。

信仰において、かたちや習慣が重要視されることには大きなつまずきがあります。それが絶対でなくても、つまりこうでなくてはならないというものでなくても、私たちの信仰を表明するためには、この世において何らかのかたちや習慣をとらざるを得ません。しかし、それらは霊的な体験に先行してはあり得ないのです。何らかのかたちや習慣を守る宗教が、信仰の証明になるのではありません。割礼を受けたり、生贄を捧げたりしたからヨルダン川を渡ったのではないということです。

カナンの地に入ると、もうマナは振らず、イスラエルの民はカナンの地で収穫した物を食べます。(ヨシュア5:12)これは何を意味するのでしょう。マナは神からの養いであり、それ自体良いものですが、ここでは新しいカナンの地での収穫と対比して描かれています。つまり、約束の地において、私たちを養うのはいのちの実です。

教理やことばじりを捉えての論争は実に不毛です。聖書の文字にとらわれていては、そこで完結してしまいます。それは「マナの世界」です。クリスチャンは「カナンの地の収穫」を食べなければなりません。それは「いのちの味わい」です。いのちのことばであるイエス御自身を体験することです。「文字は殺し御霊は生かす」(Ⅱコリント3:5)のです。この切り替わりは極めて重要です。
宗教に熱心な人は、地上で現世的なわかりやすい御利益を得たいか、この世で耐え忍ぶことによって来世に期待するかのいずれかに分かれます。私はそうした態度は両方とも信仰には程遠いものだと考えています。「マナにはあきあきした」とイスラエルの民は言いました。これは基本的には、「肉的な者が御霊のものを受け入れない」という意味ですが、別の意味においては、真理です。「絵に描いた餅」ということばがありますが、「字に書いたキリスト」では決して人は満たされないということです。天からの意味を知らずにマナをありがたがるのは、一種の病気です。よみがえられた御方を直接味わうことがなければ、人は宗教の中で空回りするだけです。聖書を歴史や道徳としてありがたがる人々の得体の知れない気持ち悪さの理由がここにあります。

さて、この後ですが、ヨシュアはひとりの不思議な武将に出会います。もちろんこの御方はイエス御自身を象徴しています。この方に対して、ヨシュアは「あなたは、私たちの味方ですか、それとも私たちの敵なのですか」と問います。するとその武将は、「いや、私は主の軍の将として、今来たのだ」と答えます。(ヨシュア5:13~14)
私たちは、自分の立ち位置が正しいかどうかを棚上げして、出逢う人々を敵味方に選別して等級をつけたりするものです。主の軍の将は、誰の軍の敵でも見方でもありません。問い返されているのは、「あなたは主の側につくのかどうなのか・・・・」ということです。ヨシュアは今まさに主のミッションを推し進め、言わばみこころのど真ん中を歩んでいるわけですが、それでも動機を問われているわけです。
私たちは、世界を教会の中と外に分け、絶えず教会を是とし、世を啓発しなければとおせっかいなことを考えています。それで、私が「今、主の側につくために意思をもってここに来たかどうか」ということには、無感覚でいることが多いのです。
例えば、献身ということについての考え方には、極端な勘違いが蔓延しているので一言釘をさしておきましょう。
自動車学校と同じくらい簡単な聖書学校を出て、キリスト教という宗教組織の中で職場を得ることをキリストへの献身だと思い込んでいる錯覚についてです。こういう経歴を持つ人が実に滑稽な証をした例についてひとつ紹介します。他にも山ほどありますが、この一例で十分です。
あるメッセージの中で、ある有名な牧師は、確かにこう言いました。「私は、幸いなことにこの世の仕事について身を汚したことなく、神に献身奉仕してきた」私は耳を疑いました。この人は誰がどんな風にして得たお金で、家族を養い、伝道してきたのでしょうか。生活を支えるために献金してくれた兄弟姉妹に汚れた仕事をさせておいて、自分は家族とともに、神に気に入られる奉仕を重ねて来られたわけです。

福音を伝えることに専心するのは良いことです。そのように召された人たちを、その役割に故に尊敬して、その暮らしを支えるのは素晴らしいことです。しかしながら、キリストを見習う私を見習って欲しいと書いたパウロが、あれほどの働きの中で、あえて自分の手で働いて日々の糧を得ていたことを軽く見ることは出来ません。
働く必要なないパウロがあえて働いたのに、パウロが働いていたことをあえて無視する人たちがいるのです。これは両方とも事実です。私はこのふたつを天秤にかけた結果、働く方を選んでいるだけのことです。反対の道を選んだ人は、私の何倍も祈ったり聖書を読んだりする時間があるはずですから、私よりも遥かに中身の濃いメッセージをして、より多くの方をより豊かに養っていただければこんなに嬉しいことはないのです。

「私たちの敵か、味方か」なんて、何とも自己中心な発想です。偏狭な価値観の持ち主ほど、身内に考えられないほど甘く、逆に敵と見なすや激しく攻撃するという傾向があります。価値を相対化出来ない幼稚な人たちは特にこの傾向が強いのです。
イエスは主です。キリストが血の代価を支払うからそこに価値が生まれるのです。私が高価で尊いからイエスは血の代価を払ったのではない。キリストの血による私たちのいのちの贖いは等価値の交換ではありません。「神が私たちの敵か、味方か」という発想は、信仰を否定するものです。大事なのは、その反対の問です。「私たちが神の敵か、味方か」という問題です。この主の軍の将は手に何を持っていましたか。抜き身の剣です。それはみことぱを表しています。神のことばは鋭いのです。このことばによってキリストとキリスト教を、霊とたましいを切り分けなければなりません。約束の地を踏むにはみことばの剣を持つ御方の権威に服する必要があります。(ヘブル4:12)そして、ヨシュアは「あなたの立っている場所は聖なる所である」(ヨシュア4:15)と告げられます。私が今いるところ、そこはすでに約束の地です。つまり、すでに主が勝利を得られた場所。そこに臨在があるということを意識すべきだと言われているのです。

この主の軍の将の問いかけに似たことをイエスもおっしゃっています。最後にそれを確認しましょう。
「それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。『何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。』 イエスは答えて、こう言われた。『わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。』すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。『もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。』そこで、彼らはイエスに答えて、『わかりません』と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。『わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。』」(マタイ21:23~27)
祭司長や民の長老たちは、イエスが自分たちにとってどういう存在であるのか問いただしておきながら、自分たちはイエスによる二者択一の簡単な質問にも答えようとはしません。神を恐れないものは人の権威を欲しがります。自分の敵か味方か、得か損かが判断基準になります。このような価値観から解放されない限り、約束のものを得ることなど決して出来ないのです。
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by kakosalt | 2013-06-29 00:37 | 約束の地 カナン

Saltによる聖書のメッセージ