約束の地カナン5 エリコの戦い

約束の地カナン5 エリコの戦い



5月30日         エリコの戦い(約束の地カナン⑤)

「エリコの戦い」という有名な黒人霊歌があります。この前に見たヨルダン川をわたることをテーマにした「深い河」という曲もあります。私は昔から音楽が好きだったので、聖書の記事より先に、こうした曲を知っていました。そして、「これらの楽曲はどんな史実を元にして作られたのだろう」とぼんやり考えていました。また、「ユダヤの歴史が黒人と何の関係があるんだろう」と不思議に思っていたわけです。黒人霊歌は、無理矢理アメリカへ連れてこられたアフリカの黒人たちやその子孫たちが歌い継いできたものです。奴隷という身分からの解放を願って、もっと正確に言えば、この世では力に抗えないので、力によっては奪うことの出来ない心の自由や誇りを、また来世での祝福を願った歌だと言ってもいいでしょう。
 一方では、彼らを連れてきたアメリカの白人たちも、自分たちの先住民侵略は「エリコの戦い」だったわけです。自分たちの祖国をエジプトに見立ててエクソダスし、カナン制服よろしくインディアンを虐殺し、その開拓の下働きに黒人を連れて来たわけです。
 私は「黒人が気の毒だ」とか「白人はひどいじゃないか」とか、そういう単純なことを言うつもりはありません。私が言いたいのは、黒人も白人も、いずれも自分の陣営に神の名の旗を掲げて、適当な救いや身勝手な解放を信じ、好き勝手に礼拝しているということです。
 「約束の地カナン」のシリーズ第4回でお話した「主の軍の将」のメッセージを思い出してください。「主は誰の味方でもない。主はただ信仰のみを評価するのだ」というのがそのメッセージの核心でした。このポイントをしっかり押さえておかないと、「エリコのたたかい」も、何が何だかわけがわからなくなります。現代版「エリコの戦い」は、中東では今も続いているからです。彼らの狂気じみた信仰には、はっきり聖書から「No!」と宣言する必要があります。
 
私は正直、初めてこの箇所を読んだとき、ことばを失いました。イスラエル人がエリコの町のまわりをくるくる回っていたら城壁がくずれ、その上、無抵抗な民を女も子どもも容赦なく剣で虐殺したというとんでもない話です。ただ単純に「主はすばらしい。ハレルヤ!」と思う人は、ちょっとどうかしていているんじゃないでしょうか。戦意のない無抵抗な人たち、しかも、女性や子ども、その上、家畜まで皆殺しにするのが果たして正義でしょうか。しかし、何度読み直しても、この殺人は神の命令です。私は混乱しました。自分を裁く者を赦し、裏切る者を執り成しながら十字架にかかるイエスと、この残忍で暴力的な行為を命令するエホバを私の小さな脳みその中で調和させることが出来ませんでした。神学的な理屈を言う人もたくさんいますが、普通の感覚では、そんなもので納得出来はしません。こんな虐殺が正義であるわけがない。そう思いませんか。「エリコのたたかい」とはいうものの、実際はエリコの人たちは全く戦ってなどいません。歌からイメージするようなヨシュアの勇敢な戦闘場面などどこにも出て来ません。現場にはものすごい叫び声や血の匂いがしたはずです。ちょっとイメージしてみてください。
神が命じているので、この殺人は確かに正義なのでしょう。この戦いで死んだ人たちは「死ぬべき」人たちだったのでしょう。しかし、仮にそうだとしても、この出来事の真似をして殺戮を繰り返す国や指導者が現れることを神は予想できなかったのでしょうか。第2、第3の「エリコの戦い」によって、今度は殺される必要のない人たちが、殺す資格のない人たちによって殺される可能性があることを、神は考慮しないのでしょうか。私はそのことを強く思ったわけです。そして、私がそのときの懸念は、当時よりもさらに拡大されて現実のものとなっています。
 神はいったい何をお考えなのでしょうか。滅ぼす人は何を思って人を殺し、殺される人たちは何を思って死んでいくのでしょう。私はこういうごく普通の感覚を奪うものは、「信仰」ではなく「宗教」だと思います。私は信仰者でありたいと思いますが、決して宗教家にはなりたくありません。私はその違和感を抱いたまま、その思いを神さまにぶつけてみました。神さまは生きておられ、答えをくださるはずです。神学の屁理屈はいりません。私は自分にもわかる神からの直接の答えを求めました。神が示されたのは、アブラハムがソドムの町のためにとりなす箇所でした。
私はその場面を繰り返して読むうちに、自分の薄っぺらな正義感や、殺されていく人たちへのささやかな思いやりは、すべて神御自身の痛みから流れてきたものだと気づかされました。
私が教えられたのは次のようなことです。「神は誰一人として理由なく殺しはしない。神がいかなる理不尽であれ、それを一時的に許される以上、それは間違いなくどこかで、また、何らかのかたちで贖われる。それこそが神の人格にふさわしいことだから・・・」
「納得」というのではなく、それは神から直接賜物としての「信仰」をいただく体験でした。神の人格に触れること、あるいは神の人格が私の中に入り込んでくることによって、私はヨシュア記を安心して読むことができるようになりました。私はこのエリコの戦いの場面をお話する前に、このことをお話する必要を感じました。さらに一言加えると、私はキリストの十字架をきちんと負わないで、都合良く神を旗印にする人たちの宗教的根心に対して、私は全く同調する気はありません。

具体的にキリスト教の話をしてもいいのですが、一般の感覚として宗教の怖さがわかるようにオウム真理教の話をしましょう。後は自分で置き換えて考えていただけたらと思います。
オウム真理教の事件は、当時の日本を写す興味深いものでした。特に教祖であった麻原の周辺にいた側近はちょうど私と同世代なので、いっそう関心をもってニュースを追い、当時は個人的にもいろいろ調べてみたものです。
その事件を見守るジャーナリストたちには、オームウオッチャーなどと言われましたが、そのうちのひとり、江川紹子さんが「裁判傍聴記」の中で、こんなことを書いておられます。
「被告人として裁かれている信者・元信者たちには、私が知るかぎり、交通事故などの過失犯を除いて、ほとんど前科がない。オウムに関わる前は犯罪とは無縁であり、むしろ人を傷つけることを恐れるタイプだった彼らが、いくら教祖の命令とは言え、どうして殺人まで犯すことができたのか」(オウム真理教 裁判傍聴記2より)
 これは、一般人の普通の感覚を代弁したものです。
この問に対する信者の答えはこうです。サリン実行犯である林郁夫氏はその著書の中でこう言っています。「私たちが地下鉄にサリンをまくことで、強制捜査のホコ先をそらせば、オウムが守られて、真理が途絶えなくてすむのだから、サリンで殺され、ポアされることになった人たちも、真理を守るという功徳を積むことになるので、誰であろうと、殺された人は最終解脱者・麻原によって、高い世界に転生させられて、真理を実践できるようになるのだ。誰も無駄死にということにはならないのだ。だから、私は真理を守るために、心を込めて実行しさえすればいいのだ。」(オウムと私より)
 キリスト教神学というのは、これに似たようなで理屈で「神を弁護」するのでしょう。でも、正直、無理があると思いませんか。私の分類ではたとえ聖書のみことばを使って理論武装しても、こういう類いのマインドコントロールは「宗教」なのです。人は神を弁護出来ません。十字架に架かられた御方が、すべての人を弁護されるのです。私は神に間違いがあるにしても、それに突っ込む資格がないし、仮に正しく突っ込めたとしてもそれは、神のものさしを借りているにすぎないとわかったわけです。
 
 では、内容を読んでいきます。(ヨシュア6:1~7)
目前に迫るイスラエル軍を前にして、エリコの町の人々は城門を堅く閉ざしていました。イスラエルの祭司と戦士は、一週間かけて黙って城壁の周りをまわりました。何もしないで、ただ城壁の周りをまわるなどということに一体何の意味があるのでしょうか。その間に城壁の隙間から弓矢で狙われるかもしれません。城壁の上から大きな石を落とされるかも知れません。
それは戦いと呼ぶにはあまりに奇妙な光景だったでしょう。
イメージしてください。イスラエル軍は、7人の祭司が角笛を吹き鳴らし続けるほかは、約60万の軍勢が沈黙したまま城壁にそって一周しただけで、また宿営地に帰って行ったのです。これが6日間繰り返されました。エリコの人たちに向けてのシュプレヒコールやメッセージはいっさいありません。エリコの人たちはこの間、どんな気持ちで見ていたことでしょう。

この箇所からは多くの学びのポイントがあると思いますが、私はそのうちのいくつかに注目したいと思います。
まずは、「7」という数字と「角笛」についてです。角笛は警告です。角笛は鳴り渡りました。7日間の間は、おそらく神の忍耐の期間でもあったでしょう。7日目目には祭司は7回城壁を回ります。主は明らかに「7」という数字にこだわっておられます。それは、神の憐れみと忍耐であり、カナンの住民にとっては悔い改めのチャンスでもあったわけです。ラハブがイスラエルについて事前に知っていた情報は、他のカナンの住民にも同様にあったはずです。角笛の音、つまり警告を聞かなかった者はいなかったのです。7日間攻撃をしかけずに待つことは、ひとつのメッセージでもあったのではないかと私は考えます。というのも、ノアの箱舟の場合もノアたちが船に入ってから7日後に洪水が起こって箱舟の戸が閉ざされたからです。ノアが家族以外を船から閉め出したわけではありません。ノアが何を作っていたのかは、誰もが知っていたはずです。人々は、見て聞いて、そして救いを無視したのです。
7日目の7回目までは、堅固な城壁はピクリと動きません。それが崩れおちると信じるかどうかは、城壁の中にいる者も、外を回る者も、ある意味では条件は同じなのです。「エリコは危ない」と感じたラハブは救われました。この時のイスラエル軍には、さすがにヨルダン川を越えてきたばかりの人たちですから、「城壁の周りを回ったって何もおこるわけがないだろう。もう行進するのはやーめた」という兵士がいなかっただけの話です。
次のポイントは、ラハブ以外のエリコ住民は城壁を頼りにしていたということです。城壁に組み込まれた家は、衣食住のすべてが城壁と一体になっていたことを表しています。それはエリコの人たちの神に敵対する生き方そのものです。先程も申しましたが、イスラエルの神に対する漠然とした恐怖を感じたり、裁かれ、滅ぼされたりすることへの多少の不安はあったでしょうが、最後までこの城壁を頼りにし、その城壁に守られた生活を重んじたのです。このあたりのことがしっかり理解できると、その誘惑を立ちきったラハブの信仰による選択が何であったのかがはっきり見えてきます。
もうひとつのポイントは、ヨシュアが民を黙らせたことです。それは主の命令でした。私たちはしばしば喋りすぎます。自分の思いや考えを不必要に語ります。これはみことばに従う上でときとして非情に妨げになります。(ヨシュア6:10)私たちは、城壁のまわりを、口を閉じて静かにまわることを求められています。それは、主は必ずこの城壁を崩されるということと同時に、この城壁がいかに大きく堅固で難攻不落なものであるかを確認する作業ではないかと思うのです。敵の要塞をくだくのは、「人の力」ではなく「神の力」です。それは「完全な従順」であるとパウロは言っています。この箇所で最も重要なことは次のみことばが語っています。
「私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知恵に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、またあなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです」(Ⅱコリント10:4~6)

ヘブル11章には、信仰によって歩んだ人たちのリストがありますが、その最後で、このエリコの戦いの場面を取り上げられています。
「信仰によって、人々は七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」(ヘブル11:30~31)
ここでも信仰と対立して書かれているのは、不従順ということであり、信仰とは、みことばに信頼した従順な行為であることを示しています。そして、みことばの約束はすべての人に開かれており、滅ぼされる町エリコの遊女は、イスラエルの勇者たちとともに名を連ねています。いいえ、この表現は適当ではないかもしれません。もう一度ヘブル11章をよく見てください。ラハブの名前はありますが、ヨシュアの名前はありません。神は「信仰」という一点において全人類に平等です。
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by kakosalt | 2013-07-05 22:53 | 約束の地 カナン

Saltによる聖書のメッセージ