約束の地カナン6 アイの戦い

約束の地カナン6 アイの戦い



6月20日        アイの戦い(約束の地カナン⑥)

前回、エリコでの不思議な戦いについてともに学びました。この戦いは神にとって滅ぼすべき者を滅ぼすための戦いであって、単純にイスラエルに利益をもたらすための戦いではありませでした。これは重要な認識です。イスラエル軍は、「主の軍の将の戦い」を代行したに過ぎないのです。神は誰の見方でもなく、誰をもえこひいきなさいません。今日も神は選民やキリスト教国家を単純に祝福などしないのです。人間どうしが己の利益を求めて血を流し合うのとは本質的に意味が異なります。自分たちに利益をもたらすための戦いを神の名において行うことは許されないのです。「神はかたよったことをなさらず、どこの国の人であっても、神を恐れかしこみ。正義を行う人なら、神に受け入れられるのです」(使徒0:34~35)とペテロは宣言しています。ヨシュア記を読むにあたってこの認識は欠かせないものです。未だに、安直なナショナリズムを掲げる人たちがどこにでもいるからです。

今日はヨシュア記7章から、「アイの戦い」について見ていきます。「アイの戦い」は「エリコの戦い」での勝利と、イスラエルの霊的状態、また信仰のあり方と深く関連して展開していきます。(ヨシュア7章)「エリコの戦い」において聖別すべきものからいくらかを取ったアカン罪は単なる窃盗ではなかったのです。もしそうであるなら、罰として死罪は重すぎます。(ヨシュア7:1,13~15, 24~26)神に対する信仰の有無は生死を分け、また永遠を分けるのです。もう一度確認しておきます。イスラエルは選民であるから、異邦人を殺戮してよいわけではありません。異邦人ラハブは信仰によって救われ、イスラエルのアカンは不信仰によって滅びるのです。

難攻不落と言われたエリコを陥落させたイスラエル軍の次の標的はアイという町でした。ヨシュアは前回同様、アイに数人の偵察を送りました。その報告は「全軍が出撃するには及びません。2、3千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」というような内容のものでした。この報告を受けてヨシュアは、約3千の兵を選抜して攻め上りました。結果は、実に無残なものでした。イスラエルは敗退し追撃され、下り坂を逃げるうちに36人が殺されたのです。  
その結果、民の心はくじけ、水のようになった。ヨシュアは衣服を引き裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭にちりをかぶったと記録されています。「衣服を裂き、頭にちりをかぶる」というのは、最大級の絶望の表現です。ひとつの都市を攻略するのですから、味方の数十人の戦死者というリスクなど取るに足りないと見ることも出来るかもしれません。しかし、あのエリコでの完全に陥落させたイスラエルにとって、これは大問題でした。ヨシュアは「イスラエルが敵の前に背を見せた」(ヨシュア7:8)ことを問題にし、恥じています。ヨシュアが問題にしたのは敗北でもなく、戦死者でもなく、「神はイスラエルを捨てたのか?だとすれば、一体それはなぜ?」ということなのです。客観的には難民同然のイスラエルが勝ち続けているのは「イスラエルとともにある神」の力によることは周囲の諸部族も知るところでした。だから、エリコの民も恐れたのです。今回は36人の戦死者で済んだかも知れませんが、この敗走の事実が知れ渡り、「神はイスラエルを見捨てた」ということになれば、イスラエルにとっては致命的です。

ヨシュアは、「あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。居残ればよかった」(ヨシュア7:7)という嘆きの祈りをしています。これはエジプトを出たイスラエルの民が荒野での困難に耐えかねて不平不満をぶちまけたことばとよく似ています。しかし、意味がまったく違います。心あるリーダーとして、味方の戦士を失うことは大きな心痛です。それにも増して、ヨシュアは神を信頼していたからこそ、このイスラエルが敵に背を向け敗走することになった結果が理解できなかったのです。
なぜイスラエルは敗れたのでしょうか。偵察の報告やそれを受けてのヨシュアの判断のミス、でしょうか。出陣可能な戦力や城壁の規模についての偵察や戦略としてのヨシュアの判断には戦略敵には大きな誤りではなかったと思われます。原因は、エリコで勝利によるイスラエルの慢心と不信仰、そしてアカンが戦利品についての罪を犯したことが原因だったのです。主は、アイを聖絶するためにイスラエルを用いるはずだったのですが、反対にイスラエルを聖絶するためにアイを用いることになってしまったのです。アカンの罪はイスラエルの民の気のゆるみや慢心のひとつの現れでした。神の祝福や聖霊の働きのただ中で、肉はここまで無神経にかつ貪欲になれるものだということです。アイから敗走は、アカンひとりの罪の連帯責任ではありません。

さらにもう一度念を押して確認しておきます。主がイスラエルを選ばれたのは、イスラエルが正しかったからではありません。全人類を祝福するさきがけとして契約を結ばれたにすぎません。全人類は「アブラハムの子孫」を通して祝福されます。つまり、それは「ただ信仰によって」ということです。ラハブはアブラハムの子孫となり、アカンはその道からはずれたわけです。恵みの時代に適用すれば、ただ「キリストの看板をあげていればいい」というのではありません。信仰がなければ、神のさばきや聖絶の対象だということです。「祝福されている群れにいればいい」そこに、つながっていればいいというのでもありません。個人の信仰の姿勢が問われます。あなたは、何を見ているのですか。何を第一にしますか。

それでも憐れみ深い主は、罪を犯したイスラエルが関係を修復できることを示されました。不信仰による犠牲者はすでに36人の戦死というかたちで神の側から示されてしまいました。しかし、イスラエルが自分たちの中から積極的に「聖絶のもの」を除き去るなら、再び神はイスラエルと共にあるというのです。そこで翌朝早く、ヨシュアがイスラエルを部族ごとに進み出させると、ユダ族がくじで選ばれ、さらにユダ族のゼラフ人の氏族が、そしてゼラフ人のザブディ家が、ザブディの子、カルミの子アカンが取られました。おそらく、当事者であるアカンは気が気でなかったでしょう。段々範囲が狭められて自分に近づいてくるのです。それでも、アカンは最後の最後まで自分から進んで名乗り出ることはありませんでした。くじによって追いつめられ、最後に罪を認めます。それは悔い改めではありません。結局、アカンは所有物のすべてを焼かれ、息子娘もろともに谷で石打ちにされました。

アカンが盗んでいたのは、「美しい外套」と「銀」と「金」です。まず、「外套」とは何でしょうか。それは聖書の中では、「罪を覆うもの」として描かれています。ひとつは、「いちじくの葉」の流れであり、もうひとつは「皮の衣」の流れです。   
「いちじくの葉」は、人の努力や取り繕いであり、虚栄や偽りの権威へとつながります。「ヤコブがヨセフに着せたそで付きの長服」(創世記37:3)や、「ラザロがその門前を借りて寝ていた金持ちの着ていた紫の衣」(ルカ16:19)を思い出してください。
一方、「皮の衣」は血による贖いと信仰のシンボルです。「預言者エリヤの外套」(Ⅱ列王2:14)や「放蕩息子が父に着せてもらった一番良い着物」(ルカ15:22)や、「イエスの結婚の披露宴の譬えの中の礼服」(マタイ22:11~12)を思い出してください。
さらに、「銀」は贖いを意味し、「金」は栄光を表します。人は自分を満足させるために、このキリストに属するものを奪うことは許されません。アカンはそれを欲しがったのです。ここに問題がありました。彼が欲しがった物が意味する霊的な意味が大切です。物を盗むのは幼稚な罪です。目に見えない神の目に見えない権威や贖いの意味や栄光を奪うのはサタンの罪です。それは高度で悪質な罪です。
このように考えると、キリスト教の世界には、現代のアカンがいっぱいいるのがわかります。彼らはキリストのくださる義の衣を嫌います。「イエスキリストを着る」のではなく、特別な権威の外套を纏おうとするのです。贖いはキリストの十字架と血潮だけではなく、良い行い奉仕が必要だと言うのです。人間の言い伝えや約束ごとを守ることを重んじて自分をも人をも縛り付けます。さらには、己を高く上げ、その栄光を奪おうとさえします。こんなものは、聖書が教える信仰とは程遠いものです。

イスラエルの中からアカンが聖別された後、改めて主からの命令が下りますが、そのことばを見てみましょう。戦う民全部が必要でした。そして、「分捕り物と家畜は戦利品として良い」(ヨシュア8:2)というものでした。先ほど、アカンが戦利品の中のいくらかを取ったことで責められ殺されたのですが、今度は戦利品を取っても良いというのです。アカンが欲しがった戦利品を象徴するものについてはどう考えればいいのでしょうか。

それはそんなに難しくはありません。エリコとアイの町に関する主のさばきの結果がそうなのです。その程度は主がお決めになるのであって私たちではありません。私たちが世から何かの栄誉や富を得たとしても、その全てを否定するのではないということです。それがそれぞれに戦利品として主が私たちに与えたものなのか、私たちが神のみことばを越えて勝手に欲しがったものなのかは、全然違うということです。

では、具体的に戦いの様子を見てみます。(ヨシュア8:10~29) イスラエルの動きを見たアイの王は、全軍を率いて出陣しました。全住民を合わせても1万2千人というアイの人口を考えれば、それに立ち向かうイスラエル全軍はおびただしい大軍です。偵察してきた事実をもとに、妥当な戦力を送ったイスラエルの判断とは違い、主のとられた方法は無駄と感じられるほ どの総力戦です。(ヨシュア8:3)アイの王は、隣町のエリコが滅ぼされるのを見ていたはずです。しかも、アイにはエリコほどの立派な城壁もありません。だからどう考えても篭城という選択はありません。しかも、先日の勝利もあって、前に出て来るしかないわけです。今度は主の命令通り、町の後ろにはイスラエルの伏兵がいます。町は焼き払われ、両側から挟み撃ちにされてアイの町滅ぼされてしまします。エリコの場合とはずいぶん違います。このように、神の導きや方法は決してワンパターンではありません。極めて多様で柔軟性に富んでおり、しかも具体的です。私たちは生きて働かれる御方と、今まさに、約束の地を獲得しようとしているのです。私たちは今どこにいますか。さて、何を焼き払い、何を得るべきなのでしょうか。「あれもダメ」「これもダメ」ですか。それとも、「あれも良し」「これも良し」ですか。私たちは物事の上辺だけを見ているのでしょうか。それとも具体的に主からのご指示をいただいているのでしょうか。

約束の地カナンの本質とは、イエス・キリスト御自身です。私たちはすでにこの御方の全てを得ているのです。イエスのもとには常に「安息」があり、「勝利」があります。「権威」があり、「贖い」があり、「栄光」があります。私たちがすでにイエスにあって全てを得ているのは、ヨシュアたちが、カナンのすべてを既に得ているのと同じです。そのことがわかっていれば、戦利品を新たに得るとか得ないは大したことではなく、それに心を奪われることなどないはずです。「あれも欲しい、これも欲しい」「注いでください」「満たしてください」というのは、いかがなものでしょう。アイでの失敗と成功をもとに、ヨシュアは祭壇を気づき、律法の権威を改めて民に示します。これも特筆すべき事柄です。(ヨシュア8:30~35)
最後にひとつのエピソードを紹介します。私は長野への旅で、お世話になった通称「電気屋さん」のご自宅の庭でもずいぶんくつろがせていただきました。とても素敵な庭です。庭にはいろんな種類の木が生えているのですが、その中に1本の大きなコナラの木がありました。通常、コナラは生長が遅い木なんだそうですが、その木は、ヨナのとうごまのような勢いで大きくなったというのです。なぜかというと、そのコナラは、山からのわき水で作られた水路のすぐそばに根をはっていたからなのです。電気屋さんはにこにこしながら、「聖書に書いてあるとおりでしょ」と話してくれました。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかった、その人。まことに主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は水路のそばに植わった木のようだ。その人は、何をしても栄える」(詩編1:1~3)
[PR]
by kakosalt | 2013-07-20 12:26 | 約束の地 カナン | Comments(0)

Saltによる聖書のメッセージ