約束の地カナン9 のがれの町

約束の地カナン9 のがれの町



10月17日      のがれの町(約束の地カナン⑨)

 ヨシュアが12部族に対して、それぞれに地域ごとに相続地の割り当を終えると、主はヨシュアに「のがれの町」について語られました。
 「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通じてあなたがたに告げておいたのがれの町をあなたがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる」(ヨシュア20:1~3)
 「のがれの町」とは、あやまって知らずに殺した殺人者を保護する場所です。まず、「あやまって知らずに殺した」というポイントについて、モーセの律法を引いてみましょう。
「もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、 または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、 会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。」(民数記35:22~24)
ここでは、敵意や悪意がないという表現が使われています。「敵意」や「悪意」の有無は、現在の司法においても量刑の重要な要素です。例えば、「人を殺すこと」にしても、それが過失である場合だけですなく、その人を愛するが気持ちが動機となり得る場合があります。古くは森鴎外が「高瀬舟」と言う小説や、最近では映画にもなった横山秀夫原作の「半落ち」という作品があります。そのような作品に触れると、愛するが故にその人を殺さざるを得ない選択をする主人公の思いに共感し心動かされるわけです。神はそんなやむにやまれぬ人の事情や動機を無視されるはずがありません。

 私たちの世界の創造者は、人間の心の機微を慮ることがお出来になる方ですが、同時に、「善意があっても悪い結果になるような仕組み」を概ね変更されないということも覚えておかねばならないことす。これはつまり「悪意があっても良い結果になる」こともあるということです。悪人が善人に向かって発砲した銃の弾道は、善人を避けて弾道を変えたりはしません。銃の精度のとおりに、撃った人の腕前通りの結果になって、急所に当たれば誰であっても絶命します。その結果、この世には不都合なことや理不尽なことは次々におこります。
 勧善懲悪のヒーロードラマでは、主人公は信じられないくらい強くて、敵の繰り出す剣や銃弾をものの見事にかわすのですが、実際にはそういうことは起こり得ないことを私たちは経験から知っています。現実の世界では、正直者が馬鹿を見たり、正義が悪に屈したりすることは日常茶飯事です。それはなぜでしょう。どうしてそんな理不尽なことを神はお許しになるのでしょうか。

 それは正義や善というものの純粋な性質を考えればわかることです。もし、正義や善を追求することが必ず大いに報われ、人からの間違いのない評価や豊かな暮らしにつながるのであれば、正義や善を追求するという目的は、賞賛や冨を得るための手段になってしまう危険性があるからです。正義や善は、たとえ全く報われなくてもそれ自体に不易な価値があるのです。だからこそ、もっとも正しく善い御方を神は十字架につけて罰することを良しとされたわけです。

 「のがれの町」の存在は、私たちの世界が不完全であることを教えています。また同時に、私たちの動機と行為の間に起こった「ねじれ」からくる罪の意識や葛藤を受け止めてくれる場所でもあるのです。その場所へ行けば、私たちの罪の結果を刈り取ることを免れるのです。これは一体何のことでしょう。ここに書かれているのは、悪意や敵意はないのに、気づかないで人を殺した場合についてです。
 ここで直接的に扱われているのは、律法の時代に不慮の事故でなくなったり、その気はないのに人を殺めてしまったりした気の毒な人たちです。ところが、霊的には、「キリストの死と私たちとの関係」について書かれているのです。
 私たちは直接的に、キリストの十字架に賛成したわけではありません。つばをはきかけた覚えもなければ、罵ったり嘲ったりしませんでした。まして、釘を打ったり槍で刺したりしなかったのです。それどころか、もし聖書を知らなければ、イエスがどんな御方なのか知りもしないし、憎みも嫌いも出来ないのです。
 イエスは、今から2000年前に、私たちが存在さえしていない時に、私たちとの関係が発生する前に「すでに殺されていた」のです。それなのに、聖書は「私の罪がイエスを十字架につけた」と言っているのです。この主張が正しいとすれば、私たちはまさに「敵意」や「悪意」が全くないのに、「知らないで」「気づかずに」イエスを殺してしまったわけです。この不当に流された血の復讐をするのは父なる神です。このように考えてくると、イエスが十字架上で祈ってくださった祈りの意味がはっきりしてきます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)というイエスの祈りは、父の復讐へのとりなしだったというわけです。イエスが、「彼ら」が赦される根拠として祈ってくださっているポイントに注目しましょう。「彼ら」は何をしているのか自分でわからないから赦して欲しいと言っておられるのです。これはまさに「のがれの町」に関する内容と重なります。「彼ら」は「私たち」です。
 本来、私たちはイエスを殺した罪を負い、父の復讐を受けるべきものです。しかし、そこからのがれる方法があります。それは、「のがれの町」に住むことです。今日、私たちは、十字架との自分の関係性を認めるか、十字架と自分は無関係であるとし、「のがれの町」を無用のものとするかを迫られているわけです。
パウロはこう言っています。「私は以前は、神をけがす者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」(Ⅰテモテ1:13)
聖書のことばは私たちに問いかけます。それで、私たちはここで初めて神に向き合い、自分の罪を見つめるのです。
イエスの十字架と私自身を見つめ、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにはありません。もし、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:8~9)

 多くの教会では、私たちと十字架の関係性について、キリストが高価で尊い私の為に命を捨ててくださったという側面ばかりを不自然に強調して語っていますが、それは非常に偏った福音です。そうではなく、イエスは「律法を全うするために」死なれたのです。愛の為ではなく、むしろ義の為に死なれたのです。そして、キリストの十字架を予表するために「のがれの町」は作られたのです。
 確かに、キリストの救いは万人に開かれています。しかし、もう一つの忘れてはならない事実があります。それは、「のがれの町」に入ったものは裁きを免れるが、そうでないものは裁きを免れないのです。「 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)のです。

 私は、一般に信じられている今日の「のがれの町」は教会であるという解釈は間違っていると考えています。「のがれの町」は教会だとすると、新たな問題が生じます。つまり、教会に所属することや通い続けることが救いを保証するかの様な錯覚を生むことです。また、どのような教会が「のがれの町」としての機能を満たしているかという議論を招きます。しかし、「のがれの町」は教会であるとしておけば、牧会者にとっては何があっても教会に留まりなさいというメッセージをしやすいわけです。

 さて、ここで「ニッポンキリスト教からエクソダスする」という表現についての問題提起をしてみましょう。これは下手をすると「のがれの町」から出てしまうイメージがありますが、いかがですか。
 逆に、今まで「のがれの町」だと思っていたところがそうではないからとにかく出てしまおうということでしょうか。
 本当の「のがれの町」とは何を指すのでしょう。そんなものは実は地上の何処にも存在しないのです。つまり、「のがれの町」は教会のことではないのです。
 キリストの十字架によって、礼拝する場所は神殿でもエルサレムでもなくなりました。ただ信じた者が自分のいる場所で霊とまことによって礼拝するのです。それは、サマリヤの女がはっきりと聴いたメッセージでした。
 「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない。そういうときが来ます。・・・・しかし、真の礼拝者たちが、霊とまことによって父を礼拝するときが来ます。今がそのときです。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:21~24)
 教会はどこにあるのでしょう。イエスはどこに教会を立てるとおっしゃいましたか。
 教会は、ただ「イエスは神の御子キリストである」という信仰の告白の上に立つのです。これは、ペテロに語られたメッセージでした。
 「のがれの町」は、宣教師や牧師の伝道や奉仕の上に出来上がった会堂の中にあるのではないのです。教団の教理に遵守することや教会員名簿に名前が載っていることとは何の関係ありません。教会をシェルターのように自分の身の安全を確保する場所だと考えるのは、愚かなことです。おかしなメッセージをする教会から、少しまともなメッセージをする教会に移ったところで、その移動自体には大した意味はありません。
「わたしはパウロやアポロやケパではなく、キリストにつく」という最もらしい主張さえ、パウロは間違いだと指摘しています。(Ⅰコリント1:12)
 ほふられた小羊の血が門柱とかもいに塗られた家が、その家にいる者たちを守ったように、キリストの血を避け所とする信仰こそが教会の実体なのです。組織や建物ではなく、信仰の実質の問題です。

 ちょっと話は複雑になったかも知れませんが、この「のがれの町」の教えそのものに、すっきりさせる鍵がちゃんとあります。それは、「大祭司が死んだらのがれの町を出て逃げてきた町に帰ることができる」という教えです。まことの大祭司とは誰でしょう。もちろん、イエスです。私たちはこの方を知らずに殺した。しかし、その死は神によって予め定められた贖いであった。そのことを信じるなら、「のがれの町」というかたちから、つまり、ありとあらゆる時空の束縛からは解放されるのです。それは、決まった時間に、決まった場所へ集まるだとか、どんなかたちで礼拝するべきだとかいうようなものから、いっさい自由になるということなのです。
 このような驚くべき解放の知らせを封印し、勝手にさまざまな人間の教えによってがんじがらめになって苦しんできたのです。それは何と愚かなことでしょうか?
 ヘブル9章にはまこと大祭司としてのキリストの姿が丁寧に描かれています。その要点はこういうことです。
 旧約の律法の規定はすべて来たるべきキリストの比喩にすぎず、礼拝者の良心を完全には出来ません。しかし、キリストが傷のない御自身を御霊によって神に捧げられたその血によって私たちの良心はきよめられたのです。大祭司であるキリストが仲介者となってくださった新しい契約は、その十字架の死によって完全に有効となったのです。

 とは言え、その血の注ぎかけを受けて神に近づこうとする者は、「集まることをやめたりしないように」とすすめられています。(ヘブル10:25)しかし、それは「建物を建ててしっかりした組織を作れ」とか、「教えを体系づけて確立せよ」ということではありません。「御父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」に入り、それを豊かに保つようにということです。(Ⅰヨハネ1:3)
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by kakosalt | 2013-07-30 21:56 | 約束の地 カナン

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