エペソ人への手紙 第1章

エペソ人への手紙 第1章



2011年1月16日      エペソ人への手紙 第1章

 これから「エペソ人への手紙」を学んでいくわけですが、この手紙の主題は、大づかみに言うと「教会とは何か」ということです。パウロは私たちの想像力が及ばないほどの圧倒的なスケールで描いています。それは、人間が作りだした神学の枠になどとうていおさまりきらない内容です。この中のほんの数節でもいいから、本当の意味で信仰によって受け止めて、霊によって理解すれば、今あるキリスト教会のつまらない茶番劇はすべて幕引きとなるでしょう。
 聖書をどれだけ頭で読んでも、口先でどれだけ「ハレルヤ」「アーメン」を連呼しても、御霊によって働く信仰がなければ、そのいっさいは全く虚しいものです。

 少しずつ見ていきましょう。まず、3節には「祝福」について書かれています。
 誰もが「祝福」されることを願っています。誰も好んで災いを願ったりしません。自分の力ではどうにもならないことを、「より以上の力」によってかなえてもらいたい。自分の周辺を有利な条件で満たしたい。そう願うのです。多くの場合、自分を祝福してくれるものであれば、それを神として崇め、代価を払い、頭を下げます。拝む対象は何だっていいわけで、ここに問題があります。
 クリスチャンも「祝福」ということばを多用します。しかし、その意味や価値をどれだけわかって口に出しているのでしょうか。「祝福してください」「祝福がありますように」と言うのは簡単です。
 では、ここで語られている「祝福」について、ふたつのポイントで考えましょう。
 それはどんな祝福でしょうか。又、それはいつ与えられるのでしょうか。
 まず、一つめの問について考えます。それはちょっとした祝福ではありません。ものすごく大きなしかも質の高い祝福です。地上的な御利益ではなく、霊的祝福だと書いてあります。みことばを確認しましょう。「天にあるすべての霊的祝福」(3節)です。
 次に、2つめの問いについて考えます。その祝福が与えられるのはいつかということです。この地上ではかなわないが、実際に天の御国で祝福されるのでしょうか。近い将来でしょうか。今でしょうか。あるいは、すでに与えられているのでしょうか。みことばはすでに与えられたものとして書かれています。みことばを確認しましょう。「私たちを祝福してくださいました」(3節)です。もう終わっているのです。イエスの死によって一切は「完了した」のです。みことばによれば、私たちは「最大級」「最高級」の祝福で「すでに」満たされているのです。この上、何かが足りないかのような祈り、まだ十分でないかのような渇きや空腹を訴えるのは、祈るたびにキリストを引き下げているのだと言えます。まことの信仰者は「常に満ちあふれていること」を告白することによって満ちあふれるのです。
 私たちは、この神が全存在と能力を賭けて成し遂げてくださったキリストの血による贖いという大事業の中心に置かれるものとして、この宇宙が創造される前から、召しと選びと計画をもって定められていたと書いてあります。みことばを確認しましょう。「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」(4節)です。この宇宙という舞台装置が整えられる前に、キャラクター設定され、キャスティングされたのだと書いてあるのです。人間は、この神のストーリーの主人公であって、大宇宙はその背景なのだと聖書は言います。人間は自然の一部などではありません。しかも、そのキャラクターには「聖く、傷がない者」というただし書きがついています。
みことばを確認しましょう。「御前で聖く、傷のない者にしようとされました」(4節)と書いてあります。にもかかわらず、自分の肉の汚れや、心の傷をいつまでも引きずって、自分を見つめてうめいているとしたら、これもまたキリストを引き下げることになるのです。

 5節を見れば、これらのことは私たちの願いであるよりは、神のみこころであり、私たちの神への愛よりも、私たちへの神の愛であることが書いてあります。みことばを確認しましょう。
 「神はただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」(5節)
 そして、その目的は、私たちが救われて喜ぶこと以上に、神の恵みが明らかになりその栄光がほめたたえられるためです。教会のメッセージでは、私たちの罪深さや信仰生活のあれこれについては語られますが、私たちの救いが神の恵みを明らかにすることであり、神の栄光こそ大切なのだということはあまり語られません。この1章では、6節、12節、14節と3回にわたって神の栄光がほめたたれられることが目的であることをパウロは確認しています。
 私たちは、全知全能の御方の思慮と知恵深さをもって知らせていただいたみこころの奥義(8節)を何と心得ているのでしょうか。
 やがて、時が満ちたなら、「天にあるものも、地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる」(10節)と約束されています。人類の歴史が、私たちを取り囲む自然が、宇宙のすべてが、そして目に見えない私たちの認識を越えた世界までもが、キリストの贖いにおいて一気に反転するのです。その時には先の者は後になり、後の者は先になり、人が築き上げたいっさいの栄光は虚しいものとなるでしょう。私たちは、このようなご計画を持っておられる方の目的に、本当に従って生きているのでしょうか。(11節)私たちは、救いの福音を、真理のことばとして伝えているでしょうか。(13節)

 ここに書かれている神の祝福や計画は、あまりにもスケールが大きすぎて、正直ピンとこないはずです。それは既に完了したことでありながら、はっきり目に見て確認することができないからです。しかし、私たちは聖霊によって確信を持つことが出来ます。
 1章の後半には、聖霊に関する重要なみことばがいくつかあります。聖霊は私たちが確かに信じたことによって押される神の証印であり、御国を受け継ぐことの保障であるとされています。(13~14節)
 大事な契約の印を何度も押し直す必要はありません。1回切りのものですが、簡単に無効には出来ません。それは、本人確認のための重要な証です。紛失したり、燃えたりする紙の契約書ではありません。私たちの霊には消えることのないキリストの刻印が押されています。それが聖霊の役割です。
 聖霊は、神が門柱とかもいに塗られた血を見極めるような区別のしるしであるだけではなく、神を知るための知恵と啓示を与える機能を持っているものだと書かれています。(17節)
 それは、肉によっては決して感じられない、また理解できないような霊的な祝福を味わい知るためのものです。この聖霊を通して神は働かれるのです(18~19節)
 ある人たちのように、聖霊充満を求めるとか、しるしや不思議を求めることは本当に愚かしいことです。聖霊はこれから肉を驚かせるような何事かを巻き起こすパワーではありません。聖霊は御子イエスを通して父なる神を明らかにする人格であり、すでに神がしてくださったことを解き明かす霊なのです。全能の力は信じる者のうちに働きます。聖霊は、イエス・キリストの品性に反することは決してなさいません。それらは神の栄光につながるものです。

 19節で使われている「力」ということばの原語はデュナミスと言って、ダイナマイトの語源にもなったことばです。しかし、誤解してはいけないのは、その力は肉が喜んだりするようには働かないということです。だから、とても分かりづらいのです。神の力は信仰の無い人にとっては愚かなものと見えるのです。(Ⅰコリント1:18)
 神の「全能の力」また「すぐれた力」はご自分を無にしてその力を主張しないことに費やされました。それは人間イエスのことばと生涯に、その十字架と復活に集約されているのです。人が喜ぶパワーとしての力の部分は、イエスがキリストであるという必要最小限の「証拠としての奇跡」です。キリストは御利益を地上にもたらすために生まれたのではありません。

 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(23節)
 エペソ人への手紙は「からだである教会」について書かれています。コロサイ人への手紙は「かしらであるキリスト」について書かれています。頭とからだは決して切り離すことが出来ません。そのつなぎ目がわからないほど自然につながっているのです。
 昨年の末に、私は短い旅に出ました。その電車の中で一年間あったことを振り返っていました。そこで深く考えさせられたのは、「愛というのはつながっている」ということだということです。家族と離れていても深くつながっている感じ、遠くにいていつも会えない兄弟姉妹たちとつながっている感じは、口ではうまく表現できない感覚すが、これは霊的な事実です。そして、これが御父ならびに御子イエス・キリストとの交わりなのです。かしらであるキリストとからだである教会は、すでにひとつであり切り離しがたいものとしてつながっているのです。それはひとつのいのちを共有しています。歓びも悲しみも、いっさいのものを共有しているのです。

 イエスが全能であるなら、教会は全能なのです。イエスはこの地上においてなすべきことは、すべて教会を通してなさるということです。私たちの不従順や不信仰はそれを阻み、制限する可能性は大いにあります。しかし、もしそうであるなら、それは喜ばしい状態ではありません。多くの場合、教会は躍起になって世の中を啓発しようとしています。しかし、そうではなくて、「私たちが自らを何とするか」ということこそが大事なのです。

 私は旅先でスキーをしました。運動神経は悪い方ではありませんが、スキーはほとんど経験がないので苦手です。頭でイメージしたように、からだが動けば非常に気持ちがいいのですが、理屈はわかっても、なかなか思うようにはいきません。からだがイメージ通りに動くには練習や訓練が必要なのだと身に沁みてわかりました。
 つまり、私たちの未熟さのゆえに、神の全能の力が、信じる私たちの中で十分に働くことが出来ないでいるのです。働きは訓練された者の能力のレベルによって制限されます。ですから、主は私たちを使い物になるようにと個別に訓練されるのです。これは非常に大事なことです。(ヘブル12:1~13)この懲らしめは、一部の人のための特別なものではなく、キリストといのちのつながりを持つ者であるなら標準的なプロセスであると語られています。この訓練が信仰を磨くのです。苦しみの中にあるとき、自分はこの訓練の中にあるのだという認識を持っているのといないのでは大違いです。頭であるキリストにイメージどおりにからだが動くことを可能にするのは、信仰だけです。そのことを知るための訓練であって、スキーにたとえはしましたが、それは頭で思い描いたイメージ通りにからだが動かないというたとえです。
 主の訓練を受けたら、スキーが上達するように信仰するのが上手くなるのではないのです。ある意味で、信仰は全くスキルアップなどしないのだということを学ぶための訓練です。私たちに信仰がなければ、かしらであるキリストのイメージがからだに伝わらないのです。逆に、かしらを離れたからだの暴走は、不信仰の結果です。

 教会に「イエスが満ちている」(23節)という状態が非常に大事です。みことばは、イエスを信じた者たちの自然な立場や権利として、「教会にはイエスに満ちているものだ」と保障しているのですから、実際にそのような状態を保てるように、信じ、期待し、歓び、分かち合うべきなのです。
 しかし、そのようであるためにがんばり始めると、結果は逆になることが多いというのも皮肉な逆説です。多くの教会は、聖書に書かれているとおりの使徒時代のような活気ある教会像を求めて、ものすごくがんばるのですが、その結果出来上がったものは似ても似つかぬ奇妙な集団だったりします。これは実に恐ろしいことですが、心にとめておかねばなりません。

 教会は世にはあっても、「新しいエルサレム」として、キリストの花嫁となる天的な存在です。ですから、この世の知恵や人間的な努力や情熱、ましてや、個人の成功への野心や生き甲斐などが入り込む余地は全くないのです。100%聖霊によるものだけが、教会を立て上げていくのです。
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by kakosalt | 2013-07-30 22:22 | エペソ人への手紙

Saltによる聖書のメッセージ