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エペソ人への手紙 第4章

エペソ人への手紙 第4章



2011年4月10日    エペソ人への手紙 第4章

 エペソ人への手紙は、1章から3章までの前半部では「知ること」を中心に、そして、4章から6章までの後半部はその霊的な知識によって具体的に「歩むこと」が述べられています。「知ること」は「立場」と関連しています。一方、「歩むこと」は「状態」と関連しています。4章にもさまざまなトピックがあり、いろいろな角度からお話できると思いますが、今日は召しにふさわしく歩むという観点からお話します。

 冒頭に「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」(エペソ4:1)と書かれています。つまり、私たちの「状態」を神の御前における「立場」と一致させることの大切さを説いています。
 召しの内容がわからなくては、その召しに相応しいとはどういうことを言うのかわかりません。パウロは「知ること」について、私たちの召しと選びがどれほどのスケールであるかを説明しました。と言ってもほとんど説明になっていないような説明ですが、通常の人の経験や感覚ではとらえられないので、パウロをもってしても、「人知を遥かに越えるスケールだ」という類の表現でしか言い様がないわけです。そういうこともあって、私たちの「状態」は簡単に「立場」に相応しいものとはならないのです。浅はかな理解で中途半端に努力して追いつくようなレベルではありません。それは人の背伸びやジャンプでどうにかなるようなものではないのです。まず、そのことを知る必要があるでしょう。私たちのあゆみは、人間の力によってはとうていおぼつかぬものなのです。それで、信仰のあゆみはつまずきの連続です。イエスがともにくびきを負ってくださることなしには一歩たりとも歩めるものではないのです。勝手に歩んだ分は、霊的には振り出しに戻されます。

 ペテロはこう言っています。
 「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心にあなたがたが召されたことと選ばれたことを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません」(Ⅱペテロ1:10)
 先ほどはつまずきの連続と申しましたが、ここにはつまずくことがないと書いてあります。つまり、主にある者は主が常に立たせてくださるので、たとえつまずいたとしても、決して倒れたままではいないのです。
 召しというのは、召された側よりも、召した側により大きな責任があります。召された罪人がどう思うか以上に、召した神がどう語っておられるかが重要です。選びについても同じです。選ばれた者よりも選んだ者に責任があるのです。私たちはいつ、誰から選ばれ、何事の為に召されたでしょうか。その選びは、世界の基のおかれる前からの選びであり、子どもにしようという召しです。
 選びと召しについて、みことばが最も強調していることは何でしょうか。パウロはこう言っています。
 それは、「神の選びの確かさは、召してくださる方によるということ」(ローマ9:11)そして、「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」(ローマ9:16)ということです。

 続いて、謙遜、柔和、寛容、愛という表現が出て来ますが、これらは決して人間の道徳性を高めるための勧めではありません。ここに大きな誤解があるために、混乱が生じるのだと私は考えています。組織や教義を一致させ、人間の管理によってスケジュールを一致させます。しかし、求められているのは御霊の一致であって、肉の一致ではありません。謙遜や柔和や寛容や愛は御霊の現れであって、人徳の表現ではないのです。(ガラテヤ5:22~26)

 それが御霊の実であるかどうかをチェックポイントがいくつかあります。
 まず、そこにイエス・キリストの香りを感じるかどうかです。そして、それは日常の生活や判断の中で世に対して表現されるものだということです。教会の中でやたら腰が低くてにこにこしているから柔和な人だというような理解だと、そういう姿を演じる人が出て来るわけです。結果、教会は非常に気持ちの悪い社交場になってしまう危険があります。
 もう一つ大事なことは、多様性が保障されているかどうかということです。表面的な一致を求めて肉による管理を進めると、必ずその群れに集まった人たちは似たような雰囲気を醸し出すでしょう。新興宗教などの群れを見れば、その現れは顕著です。目に見える教会に属しておられる方々は、そういう基準でまず自分自身と、そしてそばにいる兄弟姉妹をチェックしてみてください。御霊が働かれている群れは一人ひとりが個性的です。そして、その御霊の現れは多様であるにも関わらず、互いに自分の分を知り補い合います。そして、絶えず確認しあう必要のない静かな一致があるはずです。いかがでしょうか。

 私たちの一致は、神の三位一体の一致に寄りかかっています。
 ヨハネ17章にあるイエスの祈りを見れば、私たちが地上で主にある一致を保つことがどれほど重要であるかがわかります。「わたしたちと同様に、彼らがひとつとなるため」(ヨハネ17:11)「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるため、また、彼らのもわたしたちにおるようになるため」(ヨハネ17:21)「わたしたちが一つであるように彼らも一つであるため」(ヨハネ17:22)と書かれています。
 聖霊を分離して考える人たちが、己の分をわきまえない極端に走り、一致を保てないのは当然だとわかります。
 17章のポイントはふたつあります。
ひとつは、永遠のいのちとは何かということです。善悪の一致ではなくいのちの一致だからです。それはこのみことばにあります。
 「永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)永遠のいのちとは、しるしや不思議などのかたちやパワーを求めることではなく、イエス・キリストという御方を知ることです。
 もうひとつのポイントは、一致は真理によってこの世から聖め分かたれるところにあるということです。決してこの世の権威や知恵に寄りかかるものではありません。鍵はみことばです。
 「わたしがこの世のものではないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:16~17)
 この世から分離された霊的存在であるはずの教会が、この世で生き残るために世に癒着し、様々な妥協をして、霊的な一致など保てるわけがないのです。たとえ、そのようなごまかしで兄弟姉妹と呼ばれる人たちが仲良く手をつないだとしても、その輪の中心からイエスは出ていかれるでしょう。イエスが出て行かれた宮は崩れるほかないでしょう。(マタイ24:1~2)
 さらに教会の一致のために、役割が与えられたことが書かれていますが、これはキリストの賜物の量りに従って与えられた恵みです。これを与えたのは人ではありません。組織や権威ではなくキリスト御自身が立てたものです。それを立てるのは学校や教団ではない。世襲すると組織は腐っていきます。考えてみてください。あの預言者たちを召し出した神が、あの12人の弟子を選んだイエスが、パウロやルカを12弟子に選ばなかった神が、霊的リーダーを単純に世襲させると思いますか?少なくとも私は思いません。かたちと役割の世襲がすべて神の召しではないと言っているわけではありません。そこはよく聴いておいてください。私はそんなことは全然言っていません。私は、キリスト教というこの世と密着した宗教に就職しただけなのに、それを神への献身であると思い込んでいる人たちの誤りをはっきり指摘しているだけでのことです。
 役割があるのは、聖徒たちを整え、キリストのからだを建て上げるためです。役割につく人たちが特別なステップをのぼるわけではありません。この部分を勘違いしている人も多いと思います。だから、パウロはあえて、教会組織の中の目立つ役割について語る前に、イエスがまず低いところへくだられた事について語ったのです。神は、低いところにくだった経験のない者に、人を指導する役割につかせることは絶対ありません。みことばをよく読んでください。そう書かれているとは思われませんか。私たちはイエスが地上でどのような経験をされたか忘れてしまったのでしょうか。まさに、真理については、キリストについて何を聞き、何を学んで来たのかにかかっているのです。(エペソ4:20~21)

 まことのひとつなる教会、すなわちエクレシアとは、「召し出された者」という意味です。羊飼いである御方イエス・キリストから、その名を呼ばれ、その声を聞き分けてついて行き集まった者です。私たちは誰の声を聞きましたか。そして続けて聞いていますか。「召されたとき、召しがもたらした望みは一つ」だとパウロは書いています。(エペソ4:4)あなたがあなたの名で呼ばれ召されたからには、召した側に計画があります。それが何だかよくわからない。私は何をすればいいのでしょう。と言っているとしたら、あなたは本当にいったい何のために召されたのでしょうか。パウロは、賜物について、「ひとりひとりに与えられた」と書かれていませんか。
 伝道者や牧師や教師になる人たち以外は、何も仕事はないのでしょうか。日曜ごとに教会に来ることでしょうか。教会の中での表面的や役割をこなすことが、パウロが語っている賜物を生かしていることと同じですか。説教者が教会管理のために、これらのみことばを表面的に語るとしたら、それは大きな間違いだと言えましょう。すべての兄弟姉妹がキリストの大使であり祭司です。これがすべての兄弟姉妹のもれなく与えられている重要な役割です。これは義務ではなく大いなる特権です。
 一人ひとりがイエス以外の仲介者によらず、大胆に神の前に出ることができます。これこそが福音の最大の奥義です。しかし、その真理は、キリストのからだを建て上げるために、特別な賜物を与えられている人たちの存在を否定するものではありません。これもお間違えにならないように。まことにキリストの祭司であるとすれば、そのような役割にある人たちの発信を吟味する力をもっているはずです。本物に慣れ親しんでいる人は、必ず本物と偽物を見分けることが出来るようになります。
 一人ひとりがキリストの大使や祭司であるという事実を、表面的に大きな働きよりも遥かに軽く考えておられる傾向があると思います。これは非常に腹立たしいことで、間違っています。
あなたがキリストの祭司であり、大使であるということは、私がメッセンジャーとして召されているということ以上に大事なことです。
 大使とは外交における最上位の称号です。つまり、あなたは神の国の代表資格をもっているということです。(Ⅱコリン5:20)このことについて真剣にお考えでしょうか。また、日々そのような自覚を持っていらっしゃるでしょうか。パウロにはこの自覚が常にありました。そして、パウロだけでなくそれが標準なのです。(エペソ6:20)
 例えば、どこか馴染みのない国の日本大使になったとします。その赴任する国と日本のことを知っている必要があります。キリストの大使に置き換えるなら、この世についても、神の国についても、きちんと知っており、両国をつなぐ役割を果たす訓練が求められるということです。

 次に祭司のつとめについて考えます。
 私たちがみな神の前に祭司であるという根拠はどこにありますか。こうしたみことばに関しても、誰にでもさっと示すことができなければなりません。ドライバーが交通安全週間に警官に運転免許証を示す程度に最低限のことです。(Ⅰペテロ2:9)(黙示録1:6)
 祭司のつとめは、礼拝を守ることです。それは日曜日に出席することとイコールではありません。新約の祭司はレビ系からメルキゼデク系に切り替わっています。すべての細々とした礼拝の規定は、ただ一度神の小羊のなだめによって完成されました。この御方の流された血がすべてを新しくしたのです。私たちはこのイエス・キリストの御方のきよい血をたずさえて御前にたち、そして民をとりなすのです。そして、
私たちはサマリヤの女に続く霊とまことによる礼拝者です。そのような時空を越えた礼拝が何であるかを知り、それを広げることです。汲みに来た水瓶をおいて、この御方の渇きをお伝えすることです。
 これらのことが、召しをふさわしく歩むことについて、私が考えるところの実際です。
 ところが、私たちの実際は、イソップ童話のコウモリみたいに、ある時は世につき、あるときは神の国につきしたり、イエスの渇きではなく、自分の渇きを満たすために目先の祝福ばかりを求めたりしているのです。これでは全くいただけません。

 終わりの時代です。今、この時代を見分ける力、真理を見極める霊的感性が求められています。終わりの時代を生き抜くキーワードは、「人に惑わされないこと」です。教えの風に吹き舞わされたり、波にもてあそばれたりしている場合ではありません。(エペソ4:14~15)

 いわゆる既成の群れから離れてネット配信の情報だけに触れて満足しておられる方々に申し上げたいと思います。キリストのからだの全体というのをお考えになったことがあるでしょうか。パウロは、「私たちはからだの一部分としてそれぞれのものである」(エペソ4:24)とも言っています。私のメッセージを続けて聴いてくださっているなら、是非、何らかのレスポンスをください。キリストにある交わりにともにあずかれることを心から願っております。
by kakosalt | 2013-07-30 22:41 | エペソ人への手紙

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