エペソ人への手紙 第6章

エペソ人への手紙 第6章



2011年6月12日     エペソ人への手紙 第6章

エペソ人への手紙のシリーズ最終章である第6章からのメッセージです。
前半部は、子どもは親に対しえて、親は子に対して、奴隷は対して、主人は奴隷に対して、どのようであるべきかという心得が書かれています。後半部は、キリストの武具について書かれています。
前半部の鍵は、「主にあって」(エペソ1:1)「キリストに従うように」(エペソ1:5)「主に仕えるように」(エペソ1:7)ということばの中にあります。
世界中の指導者は、この類の教えを政治的に利用してきました。宗教とは基本的にそういうものです。仏教然り、儒教然り、ヒンズー教然り、イスラム教然り、神道然り、そしてキリスト教然りです。
この子どもや奴隷を従わせる命令も、使い様によっては為政者にとって都合の良いものとなります。しかし、よく読めば、これらの教えはそれぞれに親と主人への命令と対をなし、表裏一体になっています。このことを見落とすと、聖書のことばが、差別を容認し、ヒエラルキーを固定化する理屈になってしまいます。みことばは明確にこのように書いています。「主は人を差別されることがない」(エペソ6:9)
親に対しては、「子どもをおこらせずに、主の教育と訓戒によって育てること」(エペソ1:4)が命じられています。主人に対しては、「奴隷が主人に仕えるのと同じように」(エペソ1:7~9)ふるまうことが命じられています。要するに、現在の立場は借りのものであって、「それぞれが置かれた環境の中にあって、いかに主に仕えるか」ということが問われるのです。「面従腹背」というのではいけません。主の前における動機が大事です。この動機が信仰裏打ちされた純粋なものであるなら、それぞれに祝福が約束されています。ヨセフのように、対人関係に配慮を欠いたところがあっても、奴隷から支配者へと立場が逆転することもあります。置かれた環境の中で、信仰者を中心にした対人関係というのは、主のこころのままにどうにでも動くのです。サウル対ダビデの場合を考えても、勝手にサウルは混乱しているようにみえて、それはダビデの訓練と巧みにリンクしています。

後半は、有名な神の武具についての記述です。ここでもやはり、最初に「主にあって」(エペソ6:10)と断っています。主の大能の力で強められるのでなければ、肉の頑張りや強さは災いです。相手が人間であるならば、それもいくらかは有益でしょうが、相手は人ではない。私たちの格闘は人間を相手にしていないのです。敵は、「主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊」です。この敵が誰であるかという意識が、まずもって一番重要です。この敵が明確でなければ、私たちの努力はすべて「空を打つ拳闘」となってしまうでしょう。
私たちは人を見て、人を恐れ、あるいは羨み、人間関係に翻弄されがちなものです。人に好感を持たれるため、優位に立つためにあらゆる努力をします。福音の働きにおいても、この世の組織論や経営学を用い、さまざまな権威を求め、見せかけの祭りを演出します。みことばに学問的解釈を施し、人間の教えを付け加えます。しかし、敵ではない敵、つまり真の敵であるサタンの傀儡と武具を競っても、決して勝てはしません。この世の武具の生産においては、敵はあらゆるノウハウを持っていますから・・・。
では、細かく見ていきましょう。
まず、あらゆる武具を持つ前に必要はなのは、「しっかり立つこと」です。キリストに足場を置いて立っていない者は、武具を身につけることはできません。
腰には真理の帯です。胸には正義の胸当てです。足は福音の備えです。信仰の大盾、救いのかぶと、そして、御霊の剣です。次の祈りも含めて7つの武具ということもあるようですが、正確には武具は6つです。そのうち5つは防御用です。
これらの装束は、そのどれもがキリストを表現しています。私たちは、「キリストを着た」からです。
「あなたがたは、今どのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じた頃よりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を身につけようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエスキリストを着なさい。肉の欲のために心を用いていけません」(ローマ13:11~14)ローマ13章全体を読めば、エペソ章と呼応していることがわかります。そして、2000年前に書かれたこの勧めは、2011年の今、もっと差し迫って私たちに迫ってくるはずです。

「キリストを着る」という表現をパウロはとても気にいっていたようです。別の手紙の中でも、「あなたがたはみな、キリストイエスに対する信仰によって神の子どもです。バプテスマを受けてキリストに着く者とされたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(ガラテヤ3:26~27)と書いています。このことばに続いて、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません」(ガラテヤ3:28)とあります。私たちは見えない武具を身につけて、すなわちキリストを着て、それぞれのこの世で置かれた立場で、女も男も、子も親も、奴隷も主人も、神に仕えているわけです。
この「キリストを着る」ということをベースにしながら、パウロは装束について思いめぐらせていました。6つの武具にまとめて霊的な内容を解き明かしていますが、パウロの具体的なイメージを助けたのは、イスラエルの大祭司と武装したローマ兵の姿だったでしょう。とりわけ、エペソ人への手紙はローマの獄中で書かれていますから、牢獄を警備するローマの兵の姿は絶えず見ていたはずです。
大祭司やローマ兵に限らず、装束にはどのような意味合いがありかを考えましょう。例えば、原発内の作業に防護服なしでチャレンジするのは、勇気ではありません。そんな無謀で愚かなことは、さすがに誰もしません。装束は、どこで何をするのかということと直結しています。しかし、信仰の世界では、何が真理かも正義かもわからずに、平気でいることが多いのではないでしょうか。悲しくなるほどに、思い思いの滑稽な衣装を身につけているのが私には見えます。では、具体的にそれぞれの武具が象徴するものを確認したいと思います。
一つ目は帯です。帯は装束と私たち自身を結びつけるものです。パウロは「帯は真理だ」と言っています。そして、イエスは「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ:32)と言われました。それは、頭でっかちの知識の真理ではなく、腰に巻くような実用的な真理です。行動の自由を保証するものです。
二つ目は、正義の胸当てです。私たちの胸はいつも私たち自身の不義に打ちのめされます。しかし、「私たちは真実でなくても、彼は真実である。彼はご自身を否むことが出来ないからである」(Ⅱテモテ2:13)というみことばによって、神の義とその義なる方の約束を思い、とりなすことが出来ます。イスラエルの祭司の胸当てには12の宝石がつけられていました。それは、イスラエルの12部族を表すものでした。部族が失われても、祭司の胸の宝石は失われませんでした。これがさばきの胸当ての教えるメッセージです。イスラエルの大祭司はまことの大祭司の影です。12の宝石は12弟子であり、教会であり、私たち一人ひとりのことなのです。神の選びと召しは変わらず、大祭司の思いの中心にあるということです。
三つ目は、足にはく平和の福音の備えです。福音は頭や口ではなく、足で運ぶものだと言っている気がします。インターネットにおけるメッセージの配信を全否定する気はありませんし、これからも私の過去のメッセージの配信は続けてはいきます。しかし、私は足を運ぶことなくことばが行き来することにずっと抵抗があったことを告白せねばなりません。「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ」(イザヤ52:7)とイザヤは語っています。足は地と接する場所です。私たちは福音をこの世との接点とすべきです。
この三つが前提となって、四つ目の信仰の大盾があります。悪い者は火矢を放って来ます。私たちはそれを意識して信仰でブロックする必要があります。
 五つ目は救いのかぶとです。当時のローマ兵のかぶとは皮製で金属の板を貼り付けたつくりになっていました。また、そこに兵士の位を識別する飾りがついていました。その飾りによって所属や立場を明らかにするのです。また、頭部を救いが被っているということの意味も大きいと感じます。
 そして、六つ目は、みことばの剣です。これだけが唯一攻撃力のある者で、勝利の鍵を握っています。説明するまでもなく、人のことばではなく、信じて語られる神のことばは、すべてに勝利する唯一のものです。これからの時代、みことばにのみ依拠しなければ、簡単に振り落とされる時代がすでに来ています。見みかけの善良さや敬虔さなんて、何の役にも立ちません。みことばです。今こそ、みことばをしっかり学び、みことばを私たち自身の中に豊かに住まわせる必要があります。

ゴリアテと戦ったダビデの記事を思い出してください。(Ⅰサムエル17:38~40)
サウルはダビデに鎧を与えましたが、ダビデはこれを一度は身につけてみましたが、結局それを脱ぎ、羊飼いとしての日常の姿に戻りました。完全防備の敵の屈強な兵士と戦うには、あまりにもバランスを欠いています。(Ⅰサムエル17:5~7)しかし、ダビデにはそれで良かったのです。
このエペソの6章の6つの武具も、必要なアイテムを揃えるというようなイメージではなく、それらの武具の象徴するものは、自分の身の丈にあったものでなければ用をなさないことがわかります。日常の信仰と結びついていることが何より大事なのです。
ダビデは、すでにこれらの見えない光の武具を身につけていたので、王の権威を表す武具を不要と見なしたのです。ところが、キリスト教の世界では、サウルの鎧や武具を求めている者がなんと多いことでしょうか。目に見える強さや勇ましさに憧れるのです。そんなことだから、ゴリアテに簡単に踏みつけられてしまうのでしょう。
 熱心に宗教をやっている人は、何もかも「借り物」の感じがしませんか。
自分の頭で考えず、自分の心で決めずに、他人のことばや権威を借りて語ろうとします。受け売りでは説得力なんか少しもありません。ダビデはこうしたことを嫌ったのです。私たちも私たちにぴったりの動きやすい武具を身に付けている必要があります。ダビデが用いたのは、なめらかな小さな石です。ダビデの勝利の秘訣は、ダビデの日常の中にありました。ダビデはいつでも主とともにあり、主の栄光の現れを常に願っていたのです。(Ⅰサムエル17:34~36)
 
これら六つの武具を用いてなす戦いの中心は祈りです。御霊による祈りなのです。(エペソ6:18)
 悪魔は策略を巡らすのです。(エペソ6:11)私たちより遥かに知恵と知識に富み、有能で力ある者が、作戦を練って私たちを無力にしようとしているわけです。悪魔の得意技はみことばを用いて、私たちを誘惑することです。善悪を知っている私たちを悪いもので釣ることは出来ませんから、良いもの、麗しいものでひきつけます。そして、「神のようになりたい」と思わせるのです。私たちは、自分の心のままに判断して導かれ、良かれと思って進んで来たのに、気が付けば、みことばの命じるところとは正反対の行動をとっていることがあるのではないでしょうか。多くの人々は、キリスト教という宗教の中で、キリストと出会って虚しくすれ違うか、生まれ変わっても大人になれずに霊的にニート化していまうのです。
 武具の話をすると、自分は丸裸で、これから武具をつけなければならないと思うかもしれません。きちんと武具をつけた人が牧師や宣教師なのだと思うかも知れません。武具を身につけるためには、聖書学校や神学校へ行かなければならないと思うかも知れません。それらは間違った思い込みです。もちろん、主にあって訓練されることは必要で不可欠です。しかし、いのちがあるなら、私たちはすでにすべての武具を身に付けているのです。私たちは信じた瞬間にこれらをすべて得たのです。このいのちを生長させるのだという意識が大切です。
 
「キリストを着る」という表現というパウロは好んで使ったと申しましたが、さらにパウロらしい表現があります。それは、「私は、この身にキリストの焼印を帯びている」(ガラテヤ6:17)ということばです。からだに刻まれたキリストの刻印は着脱不能の消されることのないしるしであり、私がキリストと一体であることの証です。私が神の作品であることのサインなのです。
 着物にせよ、武具にせよ、焼印にせよ、これらはみなたとえにすぎません。その意味を知ることではなく、ダビデのように、私たち一人ひとりが日常生活の中で、その本質を深く味わうことが大切です。この新しい創造の基準にしたがって進むことが求められています。

私たちは、恐らく世界の終わりを目撃するでしょう。アダムが契約を破り、人間が神を離れたその行き着く果てを見ることになります。この人類の長い歴史の最後のコーナーを私たちは廻ろうとしています。いや、もう既に最後のコーナーはかなたに過ぎて、直線コースに来ているのかも知れません。
神はひとりでも滅びに至ることを願わず、この世界を忍耐してくださっていたのに、先に救いに預かっている私たちが、わずかの人にしか福音を伝えることが出来ていない。こんなにささやかな影響しか与えていないことに本当に愕然とします。
私は、このメッセージをもって、暫く語ることを辞めて、奉仕から退きます。
しばし静まって、終末における神のみこころを求め、又、己の在り方を問いたいと思います。
これまで、メッセージを聴いてくださった方々、また、祈りで支えてくださった方々に、この場を借りて心からお礼申し上げます。ありがとうございました。
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by kakosalt | 2013-07-30 22:51 | エペソ人への手紙 | Comments(0)

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