ひねくれ者のための聖書講座5 罪と罰

ひねくれ者のための聖書講座5 罪と罰



ひねくれ者のための聖書講座5 罪と罰

 足利事件の再審が決まりましたね。検察が先に謝罪するという異例の展開となっていたわけですが、その決め手は、無実の人を犯人にしたDNA鑑定の最新の結果だというから皮肉なものです。「最新」の結果が「再審」を決定させたのです。

 無罪放免が決まったとしても、誰がどんなかたちで管家さんの失われた日々を贖うのでしょうか?「無罪でした。ごめんなさい」で名誉回復というわけにはいきません。この過ちをつぐなうことなど誰にも出来ないことです。管家さんの前に当時の責任者や関係者が涙を流して土下座して謝ったなら、多少は気が晴れるでしょうが、それだけのことです。そのことによって、どれだけの悔しさや苦しみや悲しみを埋め合わせることができるでしょうか。

 私の願うところは、こうした冤罪事件を通して、当人や関係者はもちろん、この事件に興味をもった方々が「究極の冤罪事件」であるイエスの十字架に触れてくださることです。
 イエス・キリストほど不当な手続きによって、何の罪状もないのに極刑にされた人はいません。彼の罪状は、「人でありながら自分を神だと主張した」というものです。これが、ユダヤの指導者たちを不愉快にさせたわけですが、死刑の最終決定を出すことのできるローマ総督のピラトは、それはユダヤ人の宗教上の問題なので私はさばけない。さばきたくない。イエスには罪はないと言って、何とかイエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人の指導者たちに扇動された群衆が暴動を起こす勢いだったので、ついに最終決定をくだしてしまうのです。
 「人でありながら自分を神だと主張したイエス」の、その主張が嘘なら、荒唐無稽な嘘をついたために不当な手続きで殺されたかわいそうな人だということになりますが、もしその主張が本当なら、つまりイエスが本当に神なら、人は不当な手続きによって神を殺したのです。

 聖書は、それが神の予めの計画であり、イエスが冤罪で死ぬことが人の罪の贖いになるのだと言っているのです。これは信じられないような驚くべきメッセージです。つまりイエスは十字架にかかるために生まれ、十字架にかかることによって、この世の罪を示すと同時にこの世を贖ったのです。人は、善悪の基準では神を正しくさばけませんでした。イエスも人の罪の世界を善悪ではさばきません。十字架によってさばかれるのです。

 もし、管家さんがイエスと出会い、この御方を自分の救い主として受け入れることがあれば、彼が負った傷は「全く違う意味」を持って輝きを放ち、ものすごく高い価値と意味を持つことになるでしょう。
 管家さんのようなひどい目に逢う人はめったにいません。こういう人がたくさんおられたら大変です。しかし、少しでも彼の身になって考えてみれば、人が人を裁く手続きの難しさや罪と罰についていろいろと考えさせられるはずです。今日は「罪と罰」という主題で、ひねくれたお話を進めていきたいと思っています。
 管家さんと同じ目に会うことはなくても、自分は何もしていないのに人からマイナスの評価を受けたり、自分の正当な主張を受け入れてもらえなかったり、人間としての尊厳をふみにじられるようにして居場所や時間を奪われたりといった擬似的な体験は、私たちの廻りに意外とたくさんあるのではないかと思います。
 勿論、逆の立場で人を責めたり追い立てたりすることもあるでしょうが、私たちの置かれた立場や受ける仕打ちが理不尽で不当なものであればあるほど、「正義」について、また正義を取り繕う「偽善」について、また「罪と罰」について多少なりとも考えるものです。
 管家さんも、「警察や検察にはきちんと謝ってもらいたい」と厳しい口調で訴えておられましたが、やはり悪いことをした人にはきちんと「謝ってもらいたい」し、かたちだけの謝罪ではなく、「心から反省して欲しい」と思うのは当然のことでしょう。

 一方では、「管家さん自身がもともと周囲の人に合わせてしまうきちんと自己主張のしにくい人だった」というような報道や言説がなされています。まるで冤罪を生んだ背景として、管家さんにもその責任の一部があったかのような言い分ですが、これは全く本質から離れた意見です。世の中には気の弱い人やしっかり自分の言い分を伝えられない人がたくさんいます。そういう人たちの権利を十分に守れなかった手続きの問題なのです。冤罪被害者にもそのした間違いを生んだ要因があるなどというのは、本末転倒のとんでもない言いがかりです。
 裁判員制度も本格的に導入され、私たちも好むと好まざるとに関わらず、裁きの場に立ち会わなくてはならぬようになりました。「罪と罰」が他人ごとではなくなってきたのです。
 
 聖書の中にも、人の心の中にある「罪と罰」の意識と具体的な法手続きとが絡み合う場面が出て来ます。
 ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女が出て来る比較的有名な箇所です。(ヨハネ8:1~11)
 「自分たちの社会にあるふしだらな行為は許せない」というのではなく、イエスを陥れるための罠として彼女の罪を利用した特殊な場面設定ですが、私がいつもこの箇所を呼んで思うのは、「どうして相手の男が一緒にいないのか」ということです。普通に考えれば、この策を練ったグループと相手の男は何らかのかたちでつながっていたのではないかと想像されます。あるいは、女を差し出すことで男だけが免罪されるという条件を飲まされたかどちらかでしょう。

 今日の日本社会では、「浮気は甲斐性」「不倫は文化」だとなどと言って、ちょっと眉をひそめられる程度になっていますが、当時のユダヤ社会での、こうした淫らな行為は死罪に当たるものでした。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の統治下にありましたから、実際の死刑執行権はローマが握っていました。ですから、もし、律法に従って、「女を石で打て」と言えば、ローマの権威を侮ったことになるし、ローマに権威に服して、「女を石で打つな」と言えば、律法を無視したことになります。ユダヤの指導者たちは、このような巧妙な罠を仕掛けられたことにと得意になっていたことでしょう。
 人々の注目と尊敬を集め始めていたイエスをこの現場に立ち会わせることで、どちらを選択してもどちらかを否定しまうことになるという問題を突き付けたわけです。
 さて、イエスの反応はどうだったでしょうか。
 イエスは反論することなく、身を低くして地面に何かを書いておられました。人々の目には、答えることに窮して追いつめられた姿と見えたでしょう。「してやったり・・・・」と自分たちの作戦の成功を確信して問い続ける指導者たちの顔は、イエスにとっては、直視するに耐え難いものだったのかも知れません。
 イエスが地面に何かを書いておられたのかは、あきらかにはされていません。しかし、このような場面でイエスの秘められた心のうちを知りたい。イエスはどんな思いでいらっしゃったのか、何を伝えたかったのかを思いめぐらすことには意味があるでしょう。

 彼らが問い続けてやめないので、イエスは言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)
 罪には楽しみや快楽も伴うものです。ときにそれは甘い誘惑となります。人はそれがいけないとわかっていても道をふみはずし、罪を犯してしまいます。罪は相手を傷つけ、自分をも傷つけ、家族や周囲の人たちをみな傷つけます。
 ですから、罪を憎む気持ち、悔やむ気持ち、またその罪に対して罰を求める気持ちは誰にでもあるのです.。そこで、社会が被害者に変わって罰や制裁を加えることで、秩序を保とうと様々な約束事を作ってきたのです。
 しかし、実際の罪をさばく手続きやその執行のかたちは、一度犯されてしまった罪のダメージを完全に回復させることなど出来ないし、事件に関わるすべての人を決して満足させるものではないことも知っています。これは、いつの世の中でも同じです。この場面ではどうでしょう。ユダヤの社会には律法がありました。しかし、その律法よりも、ローマの法が事実上権威をもっていたのです。そこに横たわる矛盾を神に問い、逆に神に問かえされたのがこの場面です。この箇所には「罪と罰」の問題の本質が凝縮されています。

 イエスのことばを聞いた人々はみなその場から立ち去りました。年長者から順にひとりひとり出て行ったと書かれています。(ヨハネ8:7)
 誰も女に石を投げられなかったし、誰かが投げるのを見るのも辛かったのでしょう。今日、裁判員になって、重大事件に関わって判断したくない。凶悪犯にでも死刑判決などを出したくないという心理と非常によく似ています。
 しかも、年長者からひとりずつ立ち去って行ったのです。
 年を重ねるごとに、人は罪を重ねます。日頃は無自覚であって自分のことは棚上げしていたとしても、条件が揃えば、人の心には必ず自分の罪と向き合うように出来ているのです。自分の罪を知っているのも、それと向き合うことが出来るのも自分だけです。

 人が女を罪に定めないのと、イエスがこの女を罪に定めないのは違います。人がこの女に石を投げられないのは、罪の本質においてこの女と五十歩百歩の同罪だからです。ところが、イエスには全く罪というものがありませんでした。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とイエスが言われた意味は、「罪がないのなら、石を投げることが出来ます」という意味ではなく、「誰も彼女に石を投げることなんか出来ないでしょう」という意味です。「義人はいない」つまり「神の前に完全に正しい罪の無い人など誰もいないんですよ」という意味です。義人はイエスおひとりだというのです。ですから、イエスだけがこの女を石で打つ権威をもっておられます。しかし、イエスはあえてそのあり方を捨ててこの女の汚らわしい罪をご自身の身に負われるのです。その覚悟のことばです。さらに言えば、イエスは、罪の当人以上にその罪の本質を知っておられ、そして憎んでおられるのだということを忘れてはなりません。
 この御方が関わってくださることを信じ、この御方の光の中で明らかにされる自分の罪を正直に認めるなら、私たちはその信仰のゆえに罰を免れます。そうでなければ、自分の罪の自分で負い、自分の罪の中で死ぬだけです。(ヨハネ8:23~24)イエスのことばを聞いて心の罪を責められ、自分の家にそれぞれ帰っていった人たちは、自分の罪の中で死ぬだけです。しかし、一番罪深いと思われたこの女は、イエスのもとに留まり、イエスのことばを受け入れ、イエスの救いを受け入れたので救われるのです。「女はそのままそこにいた」(ヨハネ8:9)イエスは語るべきひとことを語られた後は、再び身をかがめたと書いてあります。誰がここから立ち去り、誰が残るのかを腕組みして見守っておられたのではありません。
 この女もその時群衆に紛れてその場を立ち去ること出来たはずです。しかし、女は自分意思でそこにいたのです。イエスのひとことは、この女の心にも届きました。四方八方から石つぶてが飛んできて殺されるイメージが襲ったでしょう。言い訳しようのない現行犯としてとらえられ、自分の罪を否応なく意識していたその中で、自分を責めたてる人たちを追い払ってくれたのです。
 女はこの予期しなかった時間の中で、イエスにさばきを託し、自分自身をゆだねようと覚悟を決めたのでしょう。このとき、この女の心の中でおこったことが、彼女の永遠を変えました。この女は何かイエスに問いかけたり、言い訳したりしたでしょうか。女は自分の罪と向き合いながら、黙って聞いていたのです。イエスが身をおこして、「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と問われたとき、女は「だれもいません」と答えています。欄外脚注を見れば、原文には「主よ」という呼びかけがあると書いてあります。彼女はイエスを主として受け入れたことがわかります。

 イエスをためして問い続けてやめなかった指導者たちは、イエスからことばを聞いたとき、そこに留まることを嫌って立ち去りました。帰っていく「自分の領域」というか「自分の居場所」があるという思い込みがあるからです。女にはもう逃げる場所がなかった。こう感じることが出来たことは、実は感謝なのです。多くの人はイエスに従わない領域、ニュートラルな場所があるのだと思っていますが、実はイエスに従わないでいることは闇の中にいることなのです。
 「神がいるなら」と神を試すことをやめましょう。神に己の罪を隠すのもやめましょう。聖書は私たちの罪を指摘して、ちょっとでも罪を犯すことがないように正しい生活を送りなさいと教えているのではありません。神は人を罪の中に誕生させた責任をとって、自らを罰したのです。それが十字架です。この世のご自身の血で贖って、この世界のいっさいの不合理、矛盾にけりをつけられたのです。このことを知っているか、知らないか、受け入れるか、受け入れないかでは全く人生が変わります。このことは、最も価値のある情報だと私は信じています。
投稿者 emi 時刻: 19:21
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by kakosalt | 2012-10-14 11:16 | ひねくれ者のための聖書講座

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