ひねくれ者のための聖書講座11 愛の寛容と不寛容

ひねくれ者のための聖書講座11 愛の寛容と不寛容



ひねくれ者のための聖書講座11 愛の寛容と不寛容

一般に「救い」ということばの持っているイメージを簡単にまとめてみると、「問題からの解放」「悩みの解決」ということです。具体的には「人間関係の修復」や「経済的な満たし」や「病気の癒し」や「生き甲斐の創造」などが含まれているような気がします。
救いを求める人間の側からの願いというのは、煎じ詰めれば「何でもいい、誰でもいいから何とかして欲しい」ということです。だから、その願いをかなえてくれる存在は、人にとって「神」にも「仏」にもなります。
「宗教」にはこうした御利益話はつきものであり、どんな宗教にもこうした特典や体験談があります。それぞれの団体が印刷する新聞や広報誌には、信者たちの力強い証が載せられており、タイトルを変えてしまえば、いったい何の神さまでどこの宗教だったかわからなくなるほど、その内容は酷似しています。
勿論、キリスト教の出版物も例外ではありません。しかも、びっくりするほどその内容はお粗末です。やせている人にダイエットの広告が意味を持っていないように、同じ悩みで困っていない人、興味がない人にはどうだっていいような内容です。
申し訳程度に聖書のことばが出て来ますが、それは、神の語りかけを聴いているのではなく、自分の主張を裏付けるための部分抽出による無理な適用なので、みことば本来の力は失われています。
又、どんな宗教でも誰も否定しようのない道徳が散りばめられているわけですが、それは御利益のおまけみたいなものです。子どもにとっては、おまけ付きのお菓子のおまけの方が重要で、お菓子はついでに食べるものです。宗教の本質は御利益です。
ついでに言うと、みことばなしの異教の知恵のことばの方が、きちんと統一がとれた文脈の中で語られている上、語り手の身の丈にあっている分、説得力が勝っていたりします。
みことばの全体性や整合性を無視し、人となられた神であるイエスの像を閉め出して、しかも残ったものをバラバラに分解するならば、その後に出来上がって来るものは、大抵は他の宗教に劣る無惨なものとなります。喩えてみれば、美人の顔のパーツを、妙な輪郭の顔の中に目隠しをして並べたようなものです。珍妙なキリスト教の主張は皆、こうした「福笑い」の結果です。こうなると、多少パーツの出来は悪くても、全体が見えている宗教が作り上げる顔の方がいくらか見栄えがいいものになるのです。
 
先程、「どんな宗教の広報誌も似たようなものだ」という言い方をしましたが、別の言い方をすれば、「教えに重なりがある」ということです。徳目には普遍性があります。
 利己主義を主張する教えはありません。自己犠牲的な愛や献身、奉仕、親切や柔和さが好まれます。それらはみなイエスという御方の人格の反映です。それはみことばを学ばなくても、心に刻まれた律法である良心の声を聴き取った結果なのです。(ローマ2:11~16)このことばは、ヨシュア記の聖戦を理解する上でも大事なみことばです。
 自分の立場や見栄や目先の利益ではなく、さまざまな教えの中にある共有し得るコアな部分を大切にしようじゃないかという美しい呼びかけの歌があります。 
「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」という歌ですが、ご存じの方も多いでしょう。これは、頓智で有名な室町時代の僧、一休さんが作った歌です。山を上る道は幾通りもあるけれど、頂上に登れば同じ月を見るようになるという意味です。宗派に違いはあっても真理は同じ。正反対からアプローチしているように見えても、上に登ってくれば同じ頂きに辿りつき、真理という同じ月を仰ぐ。だから立場は異なってもいがみ合わず、お互いを認め合おうと言う呼びかけがあります。これは、一休さんが、浄土真宗を広めた蓮如が営む親鸞200回忌に参列した際に残したものだと伝えられています。一休さんはその素性も生き様もちょっとぶっ飛んだ人でしたが、他宗と見れば排斥しあう当時の風潮の中で、この歌ひとつをとっても、一休さんの器の大きさが感じられます。物凄い寛容さです。

これに対し、聖書は言います。「イエスの御名以外によっては救い」(使徒4:12)はないと。一休さんに比べ、ペテロは何と不寛容なんでしょう。非常に排他的です。人が機嫌良く救われた気分になっているのなら、何の名前であろうが、どんな教えであろうがどうだっていいじゃないか。「これ以外は駄目だ」「こうじゃなきゃ異端だ」「自分だけが正しくて相手は間違いだ」となるから戦争になる。イスラムの大義とアメリカの正義がぶつかるのです。唯一の神を信じるのは困りものです。
そんなわけで、最近の日本では、「多神教優位論」を唱える人たちが増えています。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの同一の父祖であるアブラハムを持つ、いわゆる「アブラハムの宗教」とよばれる一神教は、独善的、排他的、攻撃的で、様々な神やそのあり方を許容する多神教の、互いの違いを受け入れる曖昧さや寛容さこそが、グローバル化の時代には必要な考え方だとするものです。

日本古来の宗教である神道や、外来の宗教ではあるけれど深く日本人の心や生活に根付いた仏教などをベースにした日本人の宗教観は、欧米人の偏狭さや不寛容さより優位であるという価値観は、日本人の耳には心地良いものです。このような考え方は、哲学者の梅原猛や解剖学者の養老孟司やアニメ監督の宮崎駿など各界の著名人によって広められており、かなり説得力もあり、影響も大きいものがあります。

神が唯一であるならば、たとえどのような宗教を信じる人に対しても、神は分け隔てなく愛を注ぎ、無神論者の神を呪う頭の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせるんだという包括論もあるわけですが、実際一神論教の信者がやっていることと言えば、自爆テロやテロ封じのための虐殺という負の連鎖であり、果ては911のような自作自演で「中東の民主化」などいう悪い冗談のような茶番を演出しているわけですから、何の説得力もありません。
さて、先の一休さんの歌ですが、これ、なかなか一級品です。
この歌のように、救いに限らず、どのようなコースを辿っても一流になれば、確かに同じ高嶺の月を見るでしょう。先日、イチローと矢沢永吉の対談を読みましたが、野球とロックンロールでまるっきりやってることは違うんですが、とても高いレベルでの共有感覚があり、お互いに通じ合っている感じが読み手に伝わって来ました。
ですから、私は一休さんの歌に反対しません。それは、闇を照らすイエスという光の反映だからです。しかし、たとえそれが欠けるところのない美しい満月であったとしても、それは遠く下から眺める月見であって、悟りでも救いでもないということです。
百歩譲って、仮にそれを「悟り」や「救い」と呼ぶとしたら、それは、知や認識のレベルのことであって、いのちの変化ではありません。聖書が約束する「救い」はそれとは全く別物です。異なる次元の話です。それは「新しい創造」(Ⅱコリント5:17、ガラテヤ6:15))であり、「永遠のいのち」(ヨハネ5:39、ヨハネ3:36)に関わることなのです。
一休さんの歌の延長線上で譬えを続けるなら、それは「月見」ではなく「月旅行」であり「月面移住」のようなスケールの話です。

話が変わりますが、最近、鶴橋周辺で通称「鶴メス」や「鶴トン」と呼ばれる怪しげなブランド品が売られているそうです。こういうのは今に始まったことではありませんが、大阪では「バッタもん」と言います。摘発しても、摘発しても、後を絶たないそうです。お察しのように「鶴メス」は「エルメス」、「鶴トン」は「ヴィトン」の偽ブランドの俗名です。エルメスやヴィトンの偽物は後を絶ちません。香港なんかでは、ホテルまでわざわざ売りにやって来ます。お互いに偽物を偽物とわかって買うのはいいのですが、偽物を本物だと思い込んで買うのは悲しいことです。でも、偽物をはじめから偽物として売る業者もありますが、本物のように見せかけて売る人もいます。時に、買う人も区別がつかないほど、偽物は本物にそっくりなのです。いずれにせよ、多くの偽物は、価値のある本物の存在を示唆しています。偽ヴィトンはあっても、偽イトーヨーカドーの袋はないということです。
では、ここでひとつ質問です。メーカーは、自社の偽物ブランドに対して寛容ですか。答えはNOです。伝統のあるきちんとしたメーカーであればありほど、そのプライドにかけて偽物を批判します。本物というのは、本質的に排他性を持っているのです。
偽物と本物の類似性を数字で表すことが出来るとしたら共通部分は90%どころじゃないです。10%も違っていたら、誰でもすぐに偽物だとわかります。本物とほとんど区別の付かないような偽物は、どこをとっても本物と98~99%同じなのです。「そんなわずかな違いを指摘するのではなく、似た部分を認め合おうよ」というのが寛容なことばは、本物、つまり正しいメーカーである創造主にとっては受け入れ難いことであるのは当然です。

正当な対価を払わずに手軽に世間で価値があるとされるものを持ちたいという偽ブランドに手を出す要求は、宗教を人生の飾りにしたい人たちの要求と重なります。
何度も言いますが、私は宗教が嫌いなのです。そしてとりわけキリスト教は大嫌いです。イエスはキリスト教の開祖ではありません。ルイ・ヴィトンが「鶴トン」と関係ないように、リアルなイエスはキリスト教とは関係がない。むしろ、多いに迷惑して、ブランドイメージを傷つけられているのです。何とかミッションとか、何とか運動とか・・・そんなバッタもん組合みたいなものに、私は名を連ねる気はありません。何の関わりもありません。今一度ここに宣言しておきます。

冒頭の話題に少し戻ります。
人間は「誰でもいい」「何でもいい」から救って欲しいと思っているかも知れませんが、救う神の側は、「誰でもいい」「何でもいい」わけじゃありません。もちろん、神はすべての人が救われることを願っておられ、そのために必要十分な代価であるイエスの血という価な犠牲を支払ってくださいました。もう、その手続きは2000年前に完了しています。だから、イエスは十字架上で息を引き取られる前に「完了した」と言われたのです。しかし、誰もが救われる準備が整ったからといって、全員がもれなく救われるわけではありません。だから、「狭き門」なのです。
狭き門と言っても、天国に十分なスペースがないので、神が救いの競争率を高くされたのではありません。では、どういうことなのでしょう。エジプトを出て来た民は、ヨシュアとカレブ以外は全員が荒野で死にました。信仰がなかったからです。逆にエジプトを出るときも、カナンの地に入ったときも、みことばに従い、信仰によって、イエスの血を表す子羊の血を門柱のかもいに塗った者、赤いひもを結びつけラハブの家に身を隠した者は滅びを免れました。
先程も見ましたが、神には分け隔てはありません。イスラエルが正義で、異邦人が悪というような単純な色分けは聖書の中には何処にもありません。神が私たちの味方か敵かではなく、私たち一人ひとりが神の側に立つかどうかが運命を分ける唯一の鍵になります。イスラエルがみな救われるのではなく、信仰のある者が真のイスラエルなのです。そこには何のえこひいきもわけへだてもありません。新しく創造された者、これが神のイスラエルです。(ガラテヤ6:16)
真のイスラエルは神の国を相続します。「神の国は、花嫁を迎える花婿の父親に似ている」(マタイ22:2)とイエスは言われました。そうです。聖書の救いは、避難所で冷たい弁当やうすっぺらな毛布を配るような救いではないのです。父なる神は、御子イエスの結婚相手を探しているのです。だから教会は花嫁だと呼ばれています。花嫁が女なら誰だっていいと言えば、それは相手を馬鹿にした発言です。花嫁に最も求められることは何ですか。それは花婿を真実に愛することです。イエスの人格と出逢い、その関わりの中でこの御方と結ばれることこそが救いなのです。愛は相手の浮気や裏切りに関しては不寛容です。それは本当に愛していることの証です。神はねたむほどに愛される御方です。
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by kakosalt | 2012-11-03 21:03 | ひねくれ者のための聖書講座

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