ひねくれ者のための聖書講座14 イエスの相対性と絶対性

ひねくれ者のための聖書講座14 イエスの相対性と絶対性



ひねくれ者のための聖書講座14 イエスの相対性と絶対性 

さまざまな価値を相対化して受信また発信できることこそ、大人の分別であろうと思います。しかし人間ひとたび何かを信じてしまうと、自分の信じたものだけがとりわけ価値あるものに思え、他のものは見えなくなる傾向があります。こうした傾向は困りものです。今日は相対ということ、絶対ということ、とりわけイエスの相対性と絶対性についてお話します。
人の世に「絶対」などということはありません。しかしながら、神というのは「絶対」の存在です。「絶対」の神が登場すれば、それ以上の答えはないわけですから、思考も議論もストップします。それは麻薬や覚醒剤を使うのに似ています。クスリによって広がる世界は偽物です。何かを見ていてもそれは幻覚です。何かを聴いてもそれは幻聴です。気持ちよくてもそれは、感覚の麻痺によるものです。何かを主張しても、それは思索の末にたどり着いた結論ではありません。
「宗教はアヘンである」とは実に名言だと思います。私は、宗教は嫌いですし、薬もやりません。「絶対間違いない」「絶対これが正しい」などというのは、そもそも非常に危険な考えなのです。

しかし、神について語るときには、必ずその「絶対」という問題が出て来ます。私たちがしっかり冷静な状態を保ちながら、ことばの指し示す内容をその都度丁寧に確認するのでなければ、自分の信じている神を一方的に相手に押しつけるだけの話になってしまい、押しつけられた相手は何ともうっとうしい気分になるでしょう。

また、同じ神を信じていても「ことばの定義」をめぐって戦うことになります。絶対がふたつもみっつもあったら困るわけです。そんな喧嘩や争いのもとになるような神なら、信じない方がよほどマシだと思うのですが、信じている人たちにとっては各々に「それが絶対正しい」のだから、「そうじゃないものは絶対間違っている」わけです。やっかいなことです。
かといって、この世に「絶対」と呼べるものが絶対ないのかと言えば、ないとも言い切れない。そういうものがどこかにあるからこそ、人は「絶対」ではないものを不完全であると感じ、ある種の欠落意識を抱えているわけです。ですから聖書は、非常に厳密な筆で「神の絶対性」について描いています。それだけに、聖書の中に重層的に展開される物語の全体性を正確に理解するのは大変で、その表現の手法も驚くほどまわりくどいものになっています。丁寧に読もうとすれば、改めてその半端ではないその質と量に圧倒されます。神がどういう具合に「絶対」であるかは、神御自身にとっても極めて重要なポイントなのです。その理解を聖書以外のガイドブックや、権威ある人の解説に頼ってはいけません。「宗教」という麻薬的なまやかしで人を騙しても騙されてもいけせん。また、それは、子どもの喧嘩みたいに、「こっちの正義」「あっちの大義」というようなものでも、「何かが正当」「残りが異端」というようなものでもないのです。

はっきり言って、絶対の神が本当におられるなら、有無を言わさぬかたちでバア~と出て来れば話はつくわけです。そう思いませんか。しかし、神はそんなことはなさいません。神が示す御自身の「絶対」の証拠はそんな陳腐なものではありません。
「絶対王政」とか言うように、「絶対」を権力に結びつけることは簡単ですが、権力が要求するものは、常に上下関係であって「個人の意思とは無関係の服従」です。上にある者が下の者を押さえつけ搾取する構造を作り出します。しかし、神が実現しようとしておられるのは水平関係であって、愛と自由が支配する世界なのです。つまり自由な意思による選択を最大限許容するのです。人間が、相対的な価値の世界の基準で「絶対的なものを神とする」と決めたのではありません。「絶対」の神が己の姿を隠すために、世界を相対化され、その中に人を置かれ、御自身をさえ位置づけられたのです。これはにわかに信じがたい不思議なことです。だからゆっくり時間をかけて、丁寧に検証する必要があるのです。
人は信仰によって、「神の絶対」とはどういうことかを知ることが出来ますが、相対世界ではそれを客観的に証明することは出来ません。それは、神がそう定められたのです。一人ひとりが相対化された神、つまり「人となられた神の子イエスとこの世界で出逢うこと」以外に神が絶対であるということを知る方法はないのです。それでペテロは「この方以外には救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われる名としては、どのような名も人間には与えられていない」(使徒4:12)と言っているのです。
そしてたとえ運良く「絶対」の神を信じても、人は相対的な世界の中で生き続けねばならず、そして信じていない人と全く同じように死ななければなりません。相対世界においては、死はいのちよりも「絶対」なのです。絶対とは「100%ということ」であり、「ただのひとつも例外がない」ということです。

当たり前のことですが、永遠のいのちを得ても怪我をしないとか病気にならないとか言うことにはなりません。永遠のいのちの所有を外に向かって証明できるものは、本人の喜びとか確信とかいうものすごく曖昧で独りよがりなものでしかないわけです。
ところが、「絶対」の神を信じた気分になると、自分は何一つ変わってはいなくても、言うことが大きくなるものです。利己主義の嘘つき野郎が「愛」や「義」について語り始めます。最低の人格でも最高の価値を口にすることは出来ます。私たちには「愛」や「義」なんてなくても、口で言うだけなら自由自在です。だから、偽善者とキリスト者は紙一重なのです。扱いきれぬものを下手に扱うと大怪我をします。それは子どもが戦車を乗り回すようなものだと言えるでしょう。キリスト教の道徳は、生来の人間性とはかけ離れているので、ダブダブの洋服のように不格好でからだにフィットしないのです。牧師や宣教師がどこか嘘くさいのはその為です。

「神は絶対」「聖書は絶対」と連呼していると実に楽です。またそれなりに気持ちのいいものです。でも、そう言い始めた時点でほとんど思考はストップしてしまいます。キリストを信じた者が、「相対」の世界における己の貧弱さを正しく相対化出来ず、「絶対」の価値を繰り返すと、最高にウザったい感じになります。客観的に見ると、こういう雰囲気をもった人は人としては最低の状態に近いと思います。親しかった友人知人はどんどん離れて行き、同じ教義や習慣を大切にする人との付き合いばかりが生活の大半を占めるようになります。こういう姿を、神は決して望んではおられないと私は思うのです。
誤解を恐れずに発言しますが、「考えること」や「感じること」をやめて信じるくらいなら、むしろ信じない方がいいと私は思っています。私は不幸せよりもバカになることを怖れています。ですから、私はいつも自分の信じていることを疑っています。考える頭と疑う心は大切だと思っています。だから、私はよく考えたっぷり疑うことをみなさんにお奨めしているのです。これが「ひねくれ者のための聖書講座」のスタンスです。私たちが信じていることは、信じ込もうと思って信じ切れるほど簡単な内容ではありません。あまりにも内容が深く、私たちの思うところを越えているので、疑っても疑いようがない確かな手応えなしに信じ続けることなど出来ないのです。

安易に「絶対」を持ち出して原理主義的になることのもうひとつの危険性は、「対話を失うこと」です。「対話ができる関係」というのはとても大事だと思っています。なぜなら、信仰というのは、煎じ詰めれば「神との対話」だと言えるからです。そして、対話の成立する関係を、聖書は「友」あるいは「兄弟姉妹」そして「夫婦」と呼んでいます。
神は奴隷を欲しているのではありません。イエスはイエスマンを嫌います。愚かな権力者はイエスマンをはべらせます。そして、本当に権威がある人は「ノー」を言う者を面白がるものです。神は私たちに神に向かって「ノー」と言える自由をお与えになりました。まことの神はそれほどに寛容であるのに、人の作った宗教では、あらゆる「ノー」を閉め出し、命令や約束で縛って対話をさせない空気を生み出します。
アブラハムは神と対話をした人物です。甥のロトとその家族が住むソドムが滅ぼされようとしていたとき、アブラハムは己の分を知りつつも、神に直接交渉したことが記されています。それは神がその心をアブラハムに明かされたからです。聖書は、神がアブラハムに交渉させようという意図をもって、ソドムを罰するというご自分の計画を伝えたというニュアンスで書かれています。神は相対的にはちり灰に過ぎない私たちを「絶対の愛」で友とされたのです。
アブラハムは父なる神の友と呼ばれましたが、教会はイエスを長子として贖いの血のつながりを持つ者を「兄弟」またイエスの「花嫁」と呼ばれています。まさにそのような親しい関係が交わりの土台なのです。従って、適当に聖書を読んで好きなように解釈して、どこかで集まって、誰かとこっそり礼拝しているというだけでは、兄弟の資格を満たしたとは言えませんし、神の絶対の威を借りて「自己主張」しているレベルの方々には、残念ながらキリストの前に立たされるひとりの花嫁の姿は見えているとは言えません。何度も言いますが、それは人の宗教です。
「誰が私の家族か?」と実の家族に対して言われたイエスは、肉親への愛情の冷え切った冷血漢なのでしょうか?そうではありません。霊的に兄弟姉妹や花嫁であるというのは、地上の親しみや友情とは次元が違うということです。イエスの肉の家族でさえ、信仰なしには霊の家族には成り得ないということです。ここにも相対化があります。「絶対」の事実を相対化されると人は戸惑うのですが、イエスはいつも相対的世界に密かに佇んで静かに招いておられるのです。

もう少しアブラハムのことを考えてみましょう。
アブラハムはその子々孫々の繁栄を約束されますが、妻サラからはなかなか子どもが産まれません。なかなか産まれないうちはいつか産まれるという希望もありますが、約束が実現しないと何かこちらの側でも満たすべき条件があるではないか・・・・と、約束の拡大解釈が始まるのです。アブラハムの妻サラはハガルという女奴隷を夫に与え、彼女から子どもを得ようとします。この時のサラの発言は実に微妙です。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところへおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」(創世記16:2)
サラの提案を受け入れ、アブラハムはハガルとの間に子どもを作りました。それがイシュマエルです。イシュマエルの子々孫々は不信の証です。神の絶対を人間が代行しようとした結果です。神の絶対を肉の力で代行しようとすると、必ず大きな過ちを犯すことになります。しかし、約束があったからこそ、その約束を実現させようと努力してしまうのも事実です。

ガラテヤ書の中で、パウロはハガルとサラから産まれるふたりのアブラハムの子孫の霊的な意味を解いています。神の絶対は不可能を可能に変え、人を律法の下にある奴隷的な束縛から自由へと解放するのだと言っています。これはイサクとイシュマエルの人格がどうとかいう相対的比較をしていては理解不能な世界です。(ガラテヤ4:21~31)

奇跡的な方法で与えられたイサクを、今度は「全焼のいけにえとして捧げよ」と言うのですから、神のおっしゃることはある意味メチャクチャです。しかし、神の命令は絶対ですから、アブラハムは従います。当然、心の葛藤はあったはずですが、聖書は何一つアブラハムの内面については語りません。アブラハムはイサクを捧げようとします。

アブラハムが、この命令が神からの絶対的なものであることをどうして知り得たのでしょうか。またそれを相対的な世界でどのように説明出来るでしょうか。絶対の神に従う生き方は相対的な世界では評価されないのです。しばしば誤解を受け、さげすまれもするでしょう。アブラハムがイサクを捧げる場合も、この世の感覚では狂気じみた行動です。
しかし、その信仰による従順によって、アブラハムは十字架による人類救済計画のプランに触れ、父が御子を与えるという神御自身の心を理解しました。しかも、これが「礼拝」だと書かれています。実際にアブラハムはイサクを殺すことも焼くこともありませんでした。神ははじめからイサクのいのちを求めていたわけではありません。その刻々のやりとりの中で、御自身の心をアブラハムと共有したかったのです。こうした共有感覚を勝ち取るために、神は実に回りくどく手のこんだ方法で人類にアプローチされています。そのすべてを解く鍵が聖書の中にあるのですから、聖書を知らないことは大きな損失なのです。「聖書を知らずに生きていたってほとんど生きている意味がない」と言っても言い過ぎじゃないほど、聖書の情報には価値があるのです。逆に聖書を知ってるのなら、それなりにその知識が実を結ぶ生き方をしていなければ嘘なのです。私は無力でも私が信じたみことばには力があるのです。

神は御自分の絶対的権限、いわゆるその全能の力において何をなさったのでしょう。それは「御自身のあり方を捨てることが出来ないとは考えないで人のかたちをとらえる」ということでした。人間と同じようになることでした。それは御自身の全能を人間の性質の中に封印することでした。すなわち、人間の大脳や神経、筋肉の処理できるレベルの範囲内で、その本質を余すところ無く表現されたということです。つまり、イエスは人間に理解できることばのみを語られたということです。そして最後は十字架の死にまで至るのです。(ピリピ2:6~11)(ヘブル5:7~10)
この通常の論理では全くあり得ないこと、不条理をご自身に強いることによって、この世界のいっさいの不条理をその身に引き受け、その血潮によって義と愛とそして自由を守られたのだと言えます。
 「人となられた神」とは、絶対的な御自身を相対化されたあり方です。その絶対的存在であるはずの神が全く受け入れられることなく相対的な世界で人類にダメだしされて十字架にかけられました。この人の自由意思による絶対者の拒絶は、あってはならない自由の権利行使です。この最悪の選択が、相対世界で死んで終わりだった。一時的存在であった被造物を永遠の存在、御自身の絶対の存在の中に組み込んだのです。これは人の創作したストーリーではあり得ません。まさに神の知恵です。
「絶対」の世界は天的であり、「相対」の世界は地上的です。本来不可能な天と地の対話が可能になるのも、天におられた神が人として地上に降り立ったからです。そして、人としてなお地上で生きている私たちが、キリストとともに既に勝利して天に座したからです。神と人とを結ぶ唯一の仲介者であり、このいのちのことばをもって、「相対」の世界に組み込まれた「絶対」の真理を解くのです。

「愛」というのは伝えにくいものです。軽薄なことばで「愛」「愛」と連呼するだけでは伝わりません。神の愛の伝え方を、静かに思いめぐらせてみませんか。
それはまず無条件の祝福です。御自身の存在を感じさせないほどの自由な世界で、ほぼ無条件、無制限に祝福を与えてくださっています。豪快かつ繊細な被造物の世界、自然の秩序や宇宙の法則の中に神のご性質を見るのですが、それはあくまでもキリストの雛型としてさまざまなかたちや現象に霊的なものを投影しているに過ぎません。キリストがわからなければ、それは何の影だかわからないので、どんなに凄いものを見せられても凄いで終わりです。神がそのあたりで寸止めされたのです。知識では絶対に神をとれられないのです。知識はかえって人の心を暗くします。
私たちはイエスという人格の中にこの御方の本質のすべてを見るのです。そんなもの見えないと言う人に対しても、神は言われるのです。「イエスは神の本質のすべて」だと。しかし、イエスは地上的な意味においての「絶対」ではありません。馬鹿にしてもいい。拒んでもいいのです。なぜなら神は愛ですから。愛しているから「いらない」と言えるんです。神は私たちを支配したいのではなく、私たちに愛されたいのです。神は限りなく御自身を小さくし、貧しくし、同時に最大限に御自身の本質を表現されました。それがイエスです。

私たちはこのイエスがわからないと言えません。イエスがただ者ではない。いや神であることははっきりわかるのです。ただわかりたくないだけです。認めたくない、信じたくないだけです。
私たちは、聖書は難しくてわからないと言ってはなりません。私たちは聖書が理解できるのです。ただ読みたくない、理解したくない。勝って気ままに自分の好きなようにやりたいから、聞こえないふりをしているだけなのです。馬鹿を装って自分は賢いと思っているのです。どうしようもなかったら主に頼るでしょう。そうしないのは、自分の中に可能性をたくさん残しているからです。

神は聖書を理解できるように書かれています。神は神のレベルで御自身を証したのではなく、人のレベルで御自身を証されたからです。そして、すべてを助け、導いてくださる聖霊が与えられているからです。
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by kakosalt | 2013-02-02 21:29 | ひねくれ者のための聖書講座

Saltによる聖書のメッセージ