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ひねくれ者のための聖書講座16 聖書における結婚と奥義

ひねくれ者のための聖書講座16 聖書における結婚と奥義



ひねくれ者のための聖書講座16 聖書における結婚と奥義

先週は長野県戸隠におりました。先日カナン教会の礼拝にもご夫婦で参加してくださた通称「電気屋さん」のところにお邪魔していました。今回の旅のきっかけは、電気屋さんのいろいろな仕事のひとつであるブライダルを手伝ってみないかというお誘いがあったのです。長野では司式をする牧師が不足していて、ふたつの式が重なったので、そのひとつを私がやることになったわけです。
これまでは、ブライダルで食い代を稼ぐ牧師や宣教師なんて、どちらかと言えば軽蔑の対象でしかなかったわけですが、一人ひとりが個々の式にどのように関わっているかを吟味したわけではないことを振り返らされました。また、昨年Koji&Mayumiの司式をされたDr.Lukeが語ってくれたメッセージも心に残っていました。そして、カナの婚礼におけるイエスの態度は、悔い改めを迫ることや福音を伝えることでなく「祝福」であったことも思わされたのです。結論として、私は今回のオファーを私に関する個別の問題として、信仰を持って受けることにしました。

 結婚という摂理は偉大です。それはキリストと教会のモデルであり、そこには祝福が満ちています。整えられた花嫁は美しいものです。新郎新婦の姿かたち以上に、そこには特別な何かがあるのを感じさせられます。誓いの瞬間、私はその厳粛さに心を打たれました。花嫁が涙を流したのです。その涙を新郎も涙に潤んだ瞳で見つめていました。頬をつたう涙はとても美しく、そんな花嫁を見つめる花婿のまなざしは限りなく優しいものです。司式者である私の問いかけに「はい、誓います」と答えるときの新郎新婦の表情は、おそらくこれまでの彼らの一生で一番真剣なものなのではないでしょうか。そんな美しい瞬間の男女の顔を私だけが見ることを許されているのですから、これはかなり贅沢な経験です。私は、来て良かったと思いました。
でも、だからと言って「ブライダルで稼ぐこと」を丸ごと肯定する気にはなれません。坊さんが弔いで稼ぐことによって死に対して鈍感になっているように、無感覚な牧師は逆に結婚に対して鈍感になっているように感じるからです。

結婚した神の御前における一体です。それはもはやふたつではなくひとつなのです。それはあたかも、ぴったりの靴のようでもあり、バイオリンの本体と弓のようでもあり、扉や宝の箱とそれを開く鍵のようでもあります。
靴は左右あわせて一足であるように、どちらか片方では意味をなしません。人生の長い道のりを同じコースを歩幅で歩いていくのです。人生の喜びのリズムも哀しみの旋律もふたりがいるからです。男の心の音楽を奏でるのは女であり、女の心の音楽を奏でるのは男です。人生の折々に同じ歌をくちずさみながら、乗り越えていくのです。お互いの可能性の扉や賜物を引き出す鍵は相手が握っています。良き夫には良き妻がいます。そして、良き妻には良き夫がいるのです。妻が輝いているのは夫が輝かせているのであり、夫が素晴らしいのは妻が支えているのです。

今日は、カナの婚礼のところから、聖書における結婚とその奥義について簡単にお話しようと思います。(ヨハネ2:1~12)
キリスト教に染まると、3日目の3という数字や6つの水がめの6という数字の象徴性だのなんだの、解き明かしのポイントがもっともらしく語られます。確かにそれは完全な間違いでもないのですが、私は普通の感覚で読んでいったときにひっかかるポイントを一緒にひっかかりながら、書かれていない教理を抽出するのではなく、「はっきり書かれていること」をもとに、少し丁寧にほぐしていけたらと思います。

ガリラヤのカナという町で婚礼がありました。そこには、イエスと弟子達と母マリヤが招かれていました。
 ユダヤの婚礼の宴は1週間続きます。婚礼は人生で最も祝福された日です。とにかく結婚式は今も昔も最大のイベントです。しかし、この喜びの時に大変な問題が生じます。宴会の途中でぶどう酒が切れてしまったのです。これは非常事態です。ポイントは、十分な備えがなかったこと、また母マリヤ以外にそれに気づいた人もいなかったということです。気づくだけなら、早晩誰かが気づくでしょう。マリヤはぶどう酒の欠乏を「イエスに」訴えました。

 人々は宴会を楽しむことや祝福に預かることには関心がありますが、自分以外の誰かを満たすために努力することは少ないのです。ぶどう酒の残量など気にすることもなく、目の前の器を空にするだけです。提供する側、準備する側の努力や気遣いを知っている人は幸いです。
マリヤも宴に招かれたお客でした。彼女もそんな客の一人として、ただ酔うことも出来たでしょうし、ぶどう酒がないことに気づいても、見て見ぬふりをすることもできたのです。しかし、マリヤはこの問題を自分ごととして深刻に受け止めました。この祝宴の当事者であるかのように真摯に問題を受け止めました。マリヤは誰をも非難せず、事実をありのままにイエスに告げます。「ぶどう酒がありません」マリヤはやはり優れた女性だと思います。女というのは無駄口が多いものです。事実をありのままイエスに伝えるマリヤの態度には学ぶべきものがあります。女とびうのは、霊的には教会を指しています。

 ぶどう酒がなくなったことに同時に多くの人が気づいたらどうだったでしょう。人々は互いを非難したかもしれません。招待客は世話役の準備不足を責め、世話役は招待客の飲み過ぎを責めるかも知れません。新郎や親たちはきっと様々な言い訳をするでしょう。
私たちの人生は、いつもぶどう酒に象徴される祝福に満ちているわけではなく、問題や困難につきあたり、ちょうどこの婚礼の時のように、ぶどう酒の欠乏状態に陥ります。その時の態度は、他者への批判や責任転嫁でしょうか。それとももっともらしい言い訳や取り繕いでしょうか。もっとも大切で決定的なことは、マリヤの指摘した事実です。つまり、もう「ぶどう酒はない」ということです。最初に結婚を経験したアダムとエバはお互いの腰のまわりをいちじくの葉で隠し、アダムはエバを責め、エバは蛇のせいにします。(創世記3:7,12~13)
マリヤの訴えはすばらしいものでした。しかし、これに対するイエスの返答はまるで、突き放すような冷たいものです。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4) 
 さて、あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。マリヤはイエスの母です。しかし、このぶどう酒の欠乏が象徴する問題を解決するのは、血肉の関係や情の問題ではないのです。
マリヤの気遣いや心配りや優しさや願いの深さ、マリヤがイエスのためにしてきた数々のこと、イエスはそれらを知らないわけではありません。しかし、イエスが水をぶどう酒に変えるという奇跡は、マリヤの持っている何かには全く関係がないのです。同様に私たちに属するいっさいの事柄と何の関係もありません。ただそれは「イエスの時」と関係しています。 
「私の時は、御手の中にあります」(詩篇31:15)と言うことが出来れば幸いです。
私の時と神の時が重なることによって、関係の無かった私と神の間に新しい関係が生まれるのです。
 マリヤは何が出来たのでしょうか。「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください』」(ヨハネ2:5)
マリヤは手伝いの人たちに、イエスに従うように促しました。このことばの背景には、イエスが突拍子もないことを言うかも知れないという経験に基づく予想があります。イエスが命じることが自分の理解を超えていたとしても、とにかくそのことばどおりにするようにと言う意味合いがあります。

続いて、イエスのなさったことが何であったのかを見ていきます。そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてありました。きよめのしきたりというのは、外出して帰った時に手足を洗うことです(マルコ7:3~4)。
イエスは手伝いの人達に言われました。「水がめに水を満たしなさい」手伝いの人たちは当惑したに違いないでしょう。今必要なのはぶどう酒です。水ではありません。彼らは給仕や接待で忙しかったはずです。何のためだから、どうなるのかわからない水を汲みに行くゆとりがあったとは思えません。現代とは違って蛇口をひねれば水が出る時代ではありません。井戸は離れた場所にあるのです。しかし、手伝いの人たちは言われたとおりにします。縁までいっぱいにしたという記録は、半信半疑の横着やデタラメな態度ではなく、何かを期待しての従順な行動であったことが伺えます。手伝いの人たちの奉仕を支えたのは、マリヤの力強い先程のことばではないでしょうか。

「今くみなさい」と言われてくみ、「持って行きなさい」と言われて持っていくと、すでに水はぶどう酒に変化していました。世話役のところに運ばれたものは、すでに、ぶどう酒でした。
 実に不思議なあり得ない出来事がおこりました。この場面の聖書の記述はもっと不思議です。それはどこから来たかわからない産地も年代も不明のぶどう酒です。しかし、ヨハネは「そのぶどう酒を味わってみた」とは書かず、「ぶどう酒になったその水を味わってみた」と書いています。水はユダヤ人にとっては「律法」を表すものであり、異邦人にとっては「日常を」表すものです。私たちを縛るものであった掟も、砂を噛むような日々も、すべてイエスにあっては最上のぶどう酒に変わるという暗示ではないでしょうか。
私たちは日曜日を守ることやお祭りごとを大事にします。様々なイベントやキャンペーン、しるし、不思議を求めます。それを企画し成功させることに夢中です。こういうものに進んで参加する人たちは、その中で手応えやり甲斐を求め、賞賛を得ようとします。でもそうしたものは人間が準備するものです。一番いいとき、これからというときに底をついて空っぽになります。しかし、イエスの与えるぶどう酒は違います。新しく結ぶキリストの契約はそうであってはならないのです。イエスが満たすとき、それは常に最上のものです。それは「いつも」そして「いつまでも」変わることなく満たし続けるのです。

 宴会の世話役はぶどう酒になった水を味わってみて、花婿に言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」(ヨハネ2:8)
次に、このことばの意味合いと宴会の世話役と責任について考えてみます。これは、賞賛でしょうか、非難でしょうか。私はこれを賞賛のことばだと思って読んでいたことがありましたが、最近は非難のことばだと思うようになりました。これ翻訳上の問題もあるのではと思って調べてみたのですが、やはり思ったとおり、原語の直訳に近い岩波訳では、「世話役は花婿を呼びつけて『人は皆良い酒を先に出すものだ。質の落ちるやつは酔った頃に出すんだ。お前と来たら良い酒を今までとっておいた』(ヨハネ2:9~10)
これを見れば、「普通はけちるところを気前よく振る舞うあなたは立派だ」と言う意味ではなく、「酔っぱらいには良いぶどう酒なんか出す必要がないのに、どうして無駄なことをするのか」という明らかな非難です。
私にはこう読めます。つまり、世話役であるキリスト教関係者は、祝宴を世話しながら利をあさっています。そして、酔っぱらった客に質の悪い物をわかった上で提供し続けるのです。そして、本当に良い酒であるキリストの契約や祝福の本質を退けるのです。

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネ2:11)何とも美しい記録です。
 カナの婚礼の奇跡は最初のしるしでした。この婚礼が祝福されたのは、そこにキリストがおられ、かつ、そこにみことばに従った人たちがいたからです。すべての結婚には、イエスが招かれていると思います。なぜなら、結婚はキリストと教会のものだからです。信じて従うなら、すべてが最上の祝福に変わります。神の与えてくださるものは、常に最高級です。最上のぶどう酒、すなわちキリストの血による契約によって、何の関係もなかった私たちがキリストの花嫁とされるのですから。
by kakosalt | 2013-02-09 20:57 | ひねくれ者のための聖書講座

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