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ひねくれ者のための聖書講座19 はじめにことばありき(その2)

ひねくれ者のための聖書講座19 はじめにことばありき(その2)



ひねくれ者のための聖書講座19 はじめにことばありき(その2)

 ひねくれ者のために聖書講座も19回目を迎えました。今日は「はじめにことばありき」という主題でお話しますが、実は2月にも同じタイトルで一度話しています。今日は同じ主題で別の角度からさらに丁寧に掘り下げていきますので、双方を補うかたちで聴いていただければと思っています。
 「はじめにことばありき」というのは、聖書の中でも非常に有名なヨハネの福音書1章1節のことばです。音の響きがいいので、この文語訳が有名ですが、現代の新改訳では「はじめにことばがあった」となっています。(ヨハネ1:1~5)この「ことば」はギリシャ語では「ロゴズ」です。ひとり語りのことモノローグ、対話のことをダイアローグと言いますが、このローグの語源は「ロゴス」です。ソクラテスやプラトンの時代には対話が重んじられていましたので、ことばの重要度に対する意識は現代の日本の感覚とは、かなり違います。「ロゴス」には、「真理」「論理」「根源」「究極」などの哲学的な内容を持っています。対話や問答を繰り返す中で余計なものを切り分け真実を明らかにしていくという感じです。ヨハネは、その「ロゴス」ということばを使用しています。「ロゴス」は「いのち」でもあり、「光」でもあり、「神御自身」でもあったとヨハネは書いています。そのロゴスが人間の姿をとって地上にやって来たと言うのです。これが、ヨハネが福音書の最初に語っている内容です。ヨハネは、さらに手紙の冒頭でも、福音書を意識して、その「ロゴス」に触ったのだと証言しているのです。(Ⅰヨハネ1:1~4)

 今日は、この「ロゴス」を意識しながら、「ことば」のお話をしたいと思います。聖書の研究を進めていくと、今まさに私自身も申しました通り、「ここの原語はどうだ」とか、「この翻訳は間違っている」とかいう話も出て来ます。聖書の翻訳というのは、実際大変な作業です。
 どうしてこういう面倒くさいことになったかというと理由はふたつあります。ひとつは、神が「全世界に福音を宣べ伝えよ」と命令されたからです。そしてもうひとつは、神がバベルで人のことばを混乱させたからです。やれやれ。ことばがひとつなら、「教会ではなくエクレシア」だとか、「油そそぎじゃなくて油塗り」だとか言わなくて済んだはずです。日本語さえあやしいレベルの人が、「原語を知ってないと駄目だ」とか、「せめて英語くらいわからないと話にならない」などと言われるとちょっとへこんでしまいますが、この面倒な問題をおこした張本人は神御自身です。というわけで、「そのあたりは、本当はどうなの?」という話を私なりにしてみようと思っています。

 1837(天保8)年にシンガポールで刊行されたギュッツラフというイギリスの宣教師が編集したヨハネの福音書の冒頭部分は、こんな表現になっています。
「ハジマリニカシコイモノゴザル。コノカシコイモノゴクラクトモニゴザル。コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。」
何となく気持ちはわかりますが、ちょっと苦しいところですね。本来、異なる文化を擦り合わせても出て来るのはこの程度だということです。
 現代の日本語では、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」となっていますが、これでもまだまだギリシャ語には迫り切れてはいません。では、ギリシャ人は、誰よりも新約聖書がよくわかるのかというと、全然そんなことはないでしょう。ですから、大事なのは翻訳ではなくて、そのことばが指し示す本質である「イエス御自身と出逢ったかどうか」です。ヨハネが手紙で語ったような体験こそが重要なのです。お互いの宗派や教団を確認して、教義が近いから仲良く出来るとかではなく、イエスに触れた者は、交わりに入っているのです。いのちのことばというのは、ことばの奧にある本質です。その翻訳のラッピングを剥がした中身です。この交わりを共有していない人たちは兄弟姉妹ではないのです。ただのキリスト教徒です。私はキリスト教徒ではありません。

 神は人のことばを混乱させたとき、今日見られるような翻訳上の困難、そしてその困難の果てに混乱が起こることも予想で出来なかったのでしょうか。当然、あらゆる事態を考慮しておられたはずです。そうした人間の側の失敗や不手際を計算に入れてもなお、絶対に損なわれない内容がありました。それは、イエス・キリストという霊的な本質です。どんな滅茶苦茶な翻訳であっても、語彙の少ない少数部族の言語で訳されたものであっても、イエスの十字架と復活という目的地にたどり着くための乱暴な地図としては、十分役立っているのです。だから、「こっちの地図は分かり易いよ」という話ならわかりますが、「この地図を使わなきゃ目的地に着けないんだ」というのは、暴論ということになります。

 細かく見ていきましょう。
 まず、「はじめに」という部分にちょっとこだわってみます。私たちが知っているあらゆることばは「後付け」のものばかりです。頭に飛んできたボールが当たった、あるいは、タンスの角に足をぶつけたとき、「痛ッ」とことばが出ます。ことばは痛みが伝わってから発信されます。今のはちょっと意地の悪い例かもしれませんが、「ことば」は「実物」と同時に、実物の後から認識されます。今お話したのは無条件反射というやつです。そして、ゆっくり考えたわけでもない痛みの表現にもちゃんと母国語を使うのです。英語がネイティブなみに話せても、咄嗟の場面では「アウチ」とは言わず、「痛ッタァ~」というのが関西人です。ことばは「後付け」なのですが、母国語は、これほどピッタリ私たちの感覚にも密着しているものです。それは経験と暮らしの中で身につけているからです。
 さらに、ことばのすごいところは、目の前に実物がなくても、「ことば」が「実物」を想起させる力を持つことです。レモンや梅干しということばだけに反応して口の中に唾液が溜まるのは先ほどの無条件反射に対して、条件反射と言います。同じ「酸っぱい」でもレモンと梅干しの酸っぱさは全然違います。レモンしか無い国に梅干しの酸っぱさを伝えるとニュアンスが変わってしまうわけです。これが翻訳上のもうひとつの難しさです。「体験を共有していないことばは伝えようがない」のです。
 これは、パブロフというソ連の医者が行った有名な実験では、犬に餌を与える前にいつもベルを鳴らすと、ベルの音を聞いただけで餌が貰えると思って唾液を出すという結果を得たのです。
 餌とベルの音は本来関係のないものですが、実物とことばのように関連づけられたと見ることも出来ます。
 では、ここでもうひとつ違う話をしてみます。
 同じ犬にある時を境にして、ベルの音の後に、餌ではなく鞭による苦痛が与えられたとしたらどうでしょう。ベルの音は犬を怯えさせるようになるでしょう。こんな風に教会がねじ曲げた聖書のことばによって傷を受けておらえる方も大勢見かけますが、それは、この誤った条件付けによるものです。

 ことばを共有するためには、確かに共通の感覚や体験が必要です。しかし、その前に、私たちの大事にする「ことば」の本質は、自分の個人的な感覚や体験を語るものではなく、イエス御自身であり、体系的なみことば全体でなければならないのです。感情をかき立てたり、経験を重視したりする集まりの中では、屈折した条件付けが蔓延して、みことばの本質を汚されます。
 クリスチャンはイエス以外を共有することは出来なません。迫害であれ、貧困であれ、同じ境遇を通ってきた人であっても、実はその苦しみを共有するのではなく、その「苦しみを慰めたイエス」を共有するのです。ですから、国籍や年齢や性別が違っても、環境や能力や経験が違っても、仕事や導きが違っても、私たちはイエスを唯一のことばとして共有することが出来るのです。

 さて、次は祈りにおけることばについて考えてみます。私たちは祈るときにもことばを使いますが、皆さん、祈るときは「本音」で祈っておられますか。これはちょっと難しい質問ですね。
 「本音」という日本語は非常にややこしいのです。「本音」というのは、口に出して他者と共有していることばではなく、口には出せない本心です。ですから、決して公には語られないものが「本音」だとしたら、誰かと一緒にとか、会衆でともに祈ったりは出来ないという矛盾が出て来ます。そうではなくて、祈るときには建前でいいんだ。みことばは建前なんだからということなのでしょうか。自分の思いとみことばの教えるところは異なっていることが多いです。とすれば、そのギャップを埋めることばは、「建前」でも「本音」でもない別の表現になるはずです。

 例えば、子どもは建前と本音のギャップに気づかずに素直にみことばの教えるところをオウム返ししてよい子の評価を得ます。このギャップに気づいて苦しみ始めると悪い子になって行くから大変です。ルカ15章に出て来る放蕩息子と兄の中にモデル化されていますが、大人の場合は律法学者やパリサイ人と取税人や遊女の姿に現れています。
 私たちは神の現実と自分の現実のギャップの大きさに気づくとき、ことばを失います。その空洞の中にすっぽり入ってくださる「ことば」を迎え入れるためです。
私たちは自分の本音を簡単に言語化できないのです。立て板に水でスラスラ言語化出来るものなんて本音じゃない。だから、「どのように祈っていいかわからない」(ローマ8:26)とパウロも語っています。
 建前と本音を近づけようなどと思うのは、とんでもない思い違いだと私は考えます。私はもっと徹底的に邪悪なものです。パウロは義人になろうとして誰よりも己を痛めつけ磨き上げた結果、至った結論は、「自分は罪人のかしらである」という認識でした。これは道徳的な美徳としての謙遜じゃなくて、「本当に自分はみじめでどうしようもない」と言っているのです。(ローマ7:24)これは人と比べて出て来るものではなく、神の律法という物さしを当てたときに徹底的に点数が足りないと正直に言っているのです。だから、パウロは「律法は人殺しや罪人のためにこそあるんだ」と宣言するのです。(Ⅰテモテ1:8~11)
 相対的に周囲の人たちと比べれば、パウロの人格的な大きさ、知的や優秀さ、道徳の高さは他者を圧倒します。自分でもあえて鼻につくぐらい自慢している箇所があるでしょう。人間どうしで比べれば、知識や経験の個人差というのはそれぐらいあります。しかし、神の前には罪人のかしらです。「もう少しで神に喜ばれそうだ」と思って敬虔そうにしている人たちって、いったいどれほど神の正義や聖さを低く見積もっているのでしょうか。そういう類の人はイエスに全く触れてはいないのです。

 私たちの祈りのいったいどれほどのものが天にまで届いているのでしょう。私たちの空洞を埋めてくださるイエスの霊のとりなしが必要です。そのときに立ちのぼる容易にことばになり得ぬものこそが、天にまで届くものだと思います。それは極めて個人的なものだと言えましょう。だから、奥の間で隠れたところにおられる御方に祈れとイエスは言われたのです。

 宗教の世界には「告白」という便利な「ことば」もあります。告白を聴く役割の人たちさえいます。さて、神は私たちが「告白」しないことは、知らない気づかない御方でしょうか。その名も「告白」というタイトルの本さえいくつもあります。これには私たちが自分の「本音」を隅々まで正確に認識できるという思い込みがあります。フロイトが無意識という心の領域について語ったことは、人の心の仕組みを考える上で革命的なことでした。フロイトが語ったことが隅々まで正確にすべての人間に当てはまることを語っているとは思いませんが、人の心には自分では思ってもいなかったことを実は思っているということはあり得るということ、そんな意識していない意識に行動や価値観を支配されたり、影響を受けたりしているということは十分あり得るのです。ちょうど「氷山の一角」という表現がありますが、私たちが意識できるのは、海から上の一部だけで海面下にはさらに大きな無意識が隠れているのです。その無意識に潜んでいる事柄の全体を本音だとしたら、それは少しずつことばにしてみれば思い当たるというものから、ことばに出来ないほどの思いたいもの、苦いものも含まれているはずです。こんなことは実は探っても無駄なのです。より深く言語化すればするほど絶望が増すだけです。
 人に無意識や忘却を与えてくださったのは神の恵みです。他人や人の深層の心理を読みとって正確に認識して幸せにはなりません。互いに自分でも気づかないまま誤解し合っているぐらいがちょうどいいのです。神には無意識はありません。ですから、本音も建て前もありません。イエスということばはそのまま神の建前でありイコール本音なのです。イエスは律法の要求を100%満たし、かつ罪が無いのに罪とされたのです。父は御子イエス受け入れ、裁きと怒りの火で焼き尽くし、なだめの供え物として受け入れました。
 右翼には「肉体言語」というおぞましい表現もありますが、乱暴な言い方をすれば、イエスは神の肉体言語です。神の義と愛を極みまで表現するにはひとり子イエスを十字架に磔けるしかなかったのです。イエスの側から言えば、自ら十字架に架かるより他に手段がなかったのです。

 神が求めている告白は「イエスは主です」という告白であって、「私があんな罪、こんな罪を犯しました」という自己申告ではありません。その精密さで評価されることはありません。まともに年齢を重ねれば、誰しも姦淫の女に向かって石を投げる気力を失います。しかし、そんな罪の意識がキリストを求めることには全くつながらないのです。罪の意識は人を神から遠ざけることしか出来ません。「イエスは主です」という告白こそが、みことばの現実と自分の現実を埋める為のものです。これが重要なのです。

 ことばには2種類あります。それは「自分の為のことば」と「人の為のことば」です。私は小学生を相手にしていますので、私が「自分が思考していることば」をそのまま伝えても全く伝わりません。「子どもがわかることば」で話す必要があります。この種の相手に応じたことばの使い分けが出来ない人は頭が悪く、配慮が足り無い人です。そういう独りよがりな人は多くの人から信頼されることは絶対ありません。
 翻って、神が人に語るとき、普通の人に全くわからないことばを語ってどうなるでしょう。神は、牧師や宣教師が仲介して注解しなければ理解不能なことばを与えるでしょうか。私は必ずしも原語に当たらなければ聖書なんて理解できないなどということはないと言いましたが、それは語り手である神という御方に対する人格的な信頼があるからです。頭が悪くても、努力しなくても、すべてが簡単に理解できるという意味ではありません。また、原語に当たってより正確な意味を探る作業が無意味だというのでもありません。

 こんな例はいかがでしょう。小学生に向かってノーベル賞学者が学術用語を散りばめて講演をしたところで、それに値打ちがあるでしょうか。それは愚かな行為として誹られるべきです。愚かな人は簡単なことを難しく話しますが、賢い人は難しいことを簡単に話すのです。ノーベル賞をとるような学者なら、自分の知識を子どもにもわかるように話します。私の手元には、「ノーベル賞受賞者にきく子どものなぜ?なに?」という本があります。小学生ぐらいの聴き手を想定して、彼らの知識や経験の質や量をふまえて、それぞれの分野の専門家がわかりやすく解説している本です。
 ノーベル賞受賞者といっても、様々な学術分野のごく末端のことを一生かけて研究して神さま隠された秘密や仕組まれたルールを見つけただけのことです。それらを何もかも、知り尽くしておられる御方が、地上へやってきてなさったお話はどれほど価値のあるものでしょうか。
 イエスは、愚かな者のメッセージはされなかったのです。非常にわかりやすい平易なことばを使った庶民の暮らしに根ざしたたとえでした。難解な用語もありません。イエスのメッセージは、知識のある人の探求に耐えるものです。しかし、知識のない人をはねのけるものではありません。

 夜回り先生という呼び名で親しまれている水谷修という方がおられます。水谷さんの著書の中にこんなことばを見つけました。
 「ことばは恐ろしいものです。ことばはもうひとりの自分を作り上げます。本当の自分をもうひとりの自分に合わせてしまいます。寂しいと言えば、もっと苦しくなります。死にたいと言えば本当に死にたくなります。ことばは、それを語った人に責任を取らせるのです。語り続ければいつの間にか人生を支配します。どうかことばをいい加減に扱わないでください。」
 もうひとつ紹介します。
 「人と人はことばではなく、ふれあいでつながるものです。君が大事だ、いつも心配している、しっかりして、と言われるよりも、ずっとそばにいてほしい。ただそばにいてほしい。それが人の求める愛です。」
 人と人の本当のつながりとは何だろうと考えさせられる重たいことばです。
 イエスはまさに、天から見下ろして怒る神、憐れむ神ではなく、私たちのそばにいるためにおりてきてくださったと聖書は言っています。それが、ロゴスが私たちの間に住まわれた(幕屋を張られた)という意味です。
 復活されたイエスは、天にのぼられる前にも、このように約束されました。 
 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
 ロゴスなる御方は、いつもそばにおられる御方です。私たちが本気で望むなら、その事実を体験的に知ることが出来ます。
by kakosalt | 2013-02-10 20:50 | ひねくれ者のための聖書講座

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