ダビデの生涯と詩編5 主によって奮い立つダビデ

ダビデの生涯と詩編5 主によって奮い立つダビデ

Ⅰサムエル27~30章

A サウルは神秘体験が豊か
 ○預言者の一団と出会って激しく預言の霊を受ける
                (Ⅰサムエル10:10~12)
 ○ダビデの出現によって悪い霊の影響を受ける
                (Ⅰサムエル18:10~11,19:8~10)
 ○預言の霊を受け、裸で倒れる(Ⅰサムエル28:3~20)

B ダビデは霊の人・サウルは肉の人
 ○黙っていても心が違う(Ⅰサムエル10:25~27)
               (詩編37:7,39:7~9)
 ○御霊の実はイエスの人格の表面化(ガラテヤ5:16~25)
           The fruit of the Spirit【KJV】
 ○ダビデとサウルの対立は必然
   
C 主の不思議な配剤①
         (Ⅰサムエル29章)
 ○ダビデに押し迫った厳しい状況
 ○ペリシテ首長たちの反対によって救われる
   
D 主の不思議な配剤②
         (Ⅰサムエル30章)
 ○町を焼き払われ女たちを奪われる
 ○味方からもいのちを狙われる
 ○主によって奮い立つ
 ○案内役のエジプト人

E イエスの苦しみ
 ○サウルの苦しみとダビデの苦しみ
 ○ダビデの苦しみとイエスの苦しみ(詩編31:9~22)
投稿者 emi 時刻: 9:36




 このギョウカイ、「癒しだ」「預言だ」「しるしだ」「不思議だ」と盛んですが、そんな占いや手品やイリュージョン、もしくは、自己啓発や三流のカウンセリングをやって人集めをしているうちに、ついに膿が出て、ご承知のようにとんでもない醜態をさらしています。教会は、「世の光」どころか「夜明けの行燈」、「地の塩」どころか「幼児向けの砂糖菓子」となっています。しかし、一方では人手によらないまことのエクレシアがあります。これは、誰かが狼煙を上げたり旗を振ったりして組織したり、同じ価値観を浸透させたりというようなムーブメントではありません。
 こうした、ふたつの流れは、アベルとカイン、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウというように、霊と肉、あるいは、信仰と宗教というふたつの道のモデルとして描かれてきました。
 さて、簡単なクイズです。ずっと見てきているサムエル記の中で、大きく取り扱われているイスラエルの初代の王サウルとダビデですが、いわゆる神秘体験、言い換えれば、キリスト教的な「しるし」「不思議」を多く経験したのはどっち? 

 答えは、サウルです。

 サウルは神秘体験の豊かな人でありました。サムエルに油注がれた後、サムエルのことばどおり、サウルは預言者の一団と出会い、激しく預言の霊を受けました(Ⅰサムエル10:10~12)

 ダビデの出現によって、主からの悪い霊にも度々悩まされます。(Ⅰサムエル18:10~11)(Ⅰサムエル19:8~10)

 ダビデを追って、サウルはラマのナヨテという町に行く道中で再び、預言の霊を受け、一昼夜裸のままで倒れていました(Ⅰサムエル19:19~24)

 サムエルが死んだ後は、心のよりどころを失ってさらに混乱し、霊媒師によって死んだサムエルの霊を呼び起こし、その霊と話をしています。(Ⅰサムエル28:3~20)

 主から新しい人に変えられる約束をいただきながら、自分の価値観にとどまり、感情に振り回され、その結果、悪い霊を受け、挙げ句に悪いとわかっていて自分で追い出した霊媒や口寄せに悩まされるサウルの姿は本当に哀れですが、残念ながらすべて自業自得です。

 一方、ダビデですが、彼にはサウルが経験したような種類の神秘体験は全くありません。このことは、しっかり記憶しておくべきことです。ダビデこそが「霊の人」、サムエルは「肉の人」です。 
 サウルが求めたもの、経験したことは、基本的に自分の感情を刺激し、高ぶらせるものです。約束された御方に対する人格的な信頼を置いていたダビデとは、求めているものが、本質的に異なっています。
 サウルは、終始主を見なかった人です。沈黙していても、主を仰ぎつつ黙したダビデとは違う印象を受けます。(Ⅰサムエル10:25~27)(詩編37:7)(詩編39:7~9)

 こうして、サウルとダビデを比べれてみれば、神秘的な体験をした人が必ずしも霊的な人ではないということがはっきりわかります。勿論、不思議やしるしは決して否定すべきもではありません。しかし、神の人格を信頼せず、みことばを無視して、しるしや不思議を求めるのは、本末転倒というものです。重要なことは、しるしや不思議ではなく、御霊の実を結ぶことなのです。(ガラテヤ5:16~25)
 ここに記されている御霊の実(ガラテヤ6:22)は、複数形ではなくて、単数形です。そして霊は大文字です。the fruit of the Spiritつまり、個々バラバラの徳ではなく、ひとりの人、イエスという御方の人格の現れだということです。ですから、これらの徳目が、私たち個々の人格を高める要素にはなり得ないということです。努力していい人になるための目当てが書いてあるわけではありません。
 しるしや不思議があったとしても、それが、イエスという御方の人格にふさわしいものかどうかということが判断の基準になるでしょう。冒頭にお話した、キリスト教会があげてきた滑稽なアドバルーンや、バラまいてきたクーポンつきの下品な広告は、いずれもイエスという御方のセンスや品性に全く似つかわしくないということが、「イエスという御方と本当に交わったことがあれば」すぐにわかるはずだと、私は思うのです。

 サウルがダビデに対立したのは必然といえます。同じように、サウルの道に追従する者はダビデの道を進む者に敵対するのです。それは、今日までずっと続いています。サウルは自分の満足を求めましたが、いつも不満を持ち、不安でいっぱいでした。ダビデは、自分の満足を求めませんでしたが、いつも満たされており、平安でした。この箇所を読みながら、肉の欲望を満足させるために生きたサウルと、御霊によって歩こうとしたダビデとを思い描いて当てはめてみてください。

 聖霊の満たしや、神の臨在というのは、いわゆる感覚的な神秘体験を意味しません。これは、クレオパたちが復活したイエスご自身と直接会話しながら、それと気づかず、気づいた時にはイエスは消えていたという場面を取り上げたときにもお話したとおりです。大事なのは、みことばです。みことばこそが、霊でありいのちです。逆説的な言い方をするなら、「みことばほど不思議なしるしはない」と私は思います。

 後半は、ペリシテ人の領地に逃れて、言わば、落ち延びて暮らしていたダビデの姿を追っていきましょう。ダビデは自国内で逃げ場を失ってペリシテ人の王の下で亡命生活をしていました。(Ⅰサムエル27;1~7)
 しかし、やがてペリシテ人がイスラエル人の間の緊張が高まると、ダビデもその部下たちと共にペリシテ軍の後軍として参戦せざるを得ない状空気になってきました。(Ⅰサムエル29:1~7)
 これは当然ダビデの本意ではありませんが、心ならずも同族を攻撃しなければならない局面を迎えます。ところが、ここで何が起こったでしょうか。ペリシテ人の首長たちがダビデの参戦に反対したのです。前にはイスラエルが、後ろにはダビデが後軍としているのだから、もし、ダビデが裏切ったなら、ペリシテはイスラエルにはさみ撃ちにされてしまいます。彼らの立場や考え方からすれば全うな主張です。ダビデが仕えていた王アキシュは、ダビデの平素の態度を見て深く信頼していたので、「ダビデが裏切るはずがない」と弁明しましたが、首長たちは納得しませんでした。
 人間的は首長たちの強い不信感が、王の信頼に勝ってしまったのですが、結果的には、このことによってダビデはイスラエルと戦わずにすんだのです。主はぺリシテ人の首長たちの判断や意見を通して、ダビデを窮地から救われました。このように、私たちは、大きな大きな主の御手とみこころなの中にいます。私が何も企てなくとも、「私の計画よりも主の導きが遥かにまさる」と心から信じて自らの人生を委ねているなら、このように敵の判断や、さまざまな状況を有利に展開してくださるのです。
 私も、大きなことではありませんが、いつもこの種のことは体験させてもらっています。理屈ではなかなか納得しない私の性格を主はよくご存じなので、その配剤の妙というか、あり得ない要素を組み合わせて、明らかにはじめから意図された絵を鮮やかに描いて見せることによって、いつも圧倒してくださっています。

 ただし、それはいわゆるラッキーなことの連続したり、無意味な単なる御利益があるというのとは違います。それは、この後のダビデの経験したことを見ればわかります。これで何もかもうまく行ったわけではありませんでした。ダビデがツィケラグに帰ると、とんでもないことが起こっていました。ダビデがいない間に、アマレク人がツィケラグを攻撃し、火で焼き払い、女たちをとりこにして、連れ去っていたのです。その中にはダビデの妻もたちもいました。ここで、皆が女たちを取り戻すために一致団結したのならいいのですが、そうはなりませんでした。民は悲しみのあまり、ダビデを石で打ち殺そうとしたのです。ダビデは非常に悩みました。なす術もなく、勝機を見出すこともありません。
 しかし、ダビデはこの絶望的な状況の中で、ただ彼の神、主によって奮い立ちました。(Ⅰサムエル30:6)

 この緊迫した状況の中でも、ダビデは決して焦りませんでした。冷静に主のみちびきを伺い、みことばを求めました。主はダビデに「アマレク人の略奪隊を追いついて勝てる」という約束を与えました。そればかりではありません。主は一人のアマレク軍の奴隷だったエジプト人に会うようセッティングしておられました。このエジプト人のおかげでダビデは首尾良く、抜群のタイミングでアマレク軍を討ち取ることが出来たのです。(Ⅰサムエル30:11~20)このエジプト人奴隷をちょうど3日前に病気にしたのは誰ですか。主人に置き去りにされたのは誰ですか。すべては主の配剤の中にあります。

 個々の出来事をバラバラに見てみると、ものすごく辛かったり、悲しかったりすることもあるでしょう。そして、それらは何の関連もなく、ただバラバラに起こっているように感じられるかも知れません。しかし、この世界にある全てのものは、主の御手の中にあります。そしてこの御方は、聖なる方、義なる方、愛なる方です。この世界をお造りになった方を信じるなら、この世界を贖ってくださる御方に委ねるなら、絶対に失望させられることはないのです。
 「ダビデは、彼の神、主によって奮い立った」(Ⅰサムエル30:6)これは、人間的には望みを持てる材料が何一つないときに、主と言う御方に人格的に信頼したことを意味しています。物凄く励まされることばです。クリスチャンのあゆみの中には、人間的に非常に厳しい場面もあります。そんなときこそ、私たちは主によって奮い立つべきときなのです。
 サウルには神秘体験はありましたが、「サウルは、彼の神、主によって奮い立った」という類のみことばは全く見あたりません。このことからも、サウルとダビデ、それぞれの主との関係がわかります。サウルもダビデも苦しみましたが、主に信頼したかどうかによって、その苦しみの質や価値は全く違うものとなりました。サウルは身から出た錆、自業自得の苦しみです。ダビデの場合は、人の子イエスのすばらしさを味わう喜びにつながる苦しみです。
 主に信頼する人としない人は何と大きく違っていることでしょうか。この後、サウルはその子どもたちや一族まで巻き込んで本当に悲惨な最期をむかえます。

 最後に詩編31編9~22を見てみましょう。ここには、敵ばかりか身内からも責められ、命を狙われるダビデの苦しみが描かれています。
 理由なく苦しみを受けるダビデの悩みは、イエスの十字架に至るそれを思わせる描写となっています。ダビデは主によって奮い立ちました。その結果、何の害も受けることなく救われました。
 ところが、イエスはダビデよりも遥かに厳しい苦しみや痛みの中で、最後の最後まで100%の信仰を告白しながら、父なる神に見捨てられました。
 イエスは十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この世の人はそれを敗北や不信のことばと評価しています。しかし、そうではありません。神の完全な義を前にして、「どうして私を捨てるのか」と言いうるあゆみをされたのは、この御方だけです。
 私たちは、この御方のなだめのゆえに、贖いの血のゆえに、祝福を受けるのです。この御方の支払われた犠牲があまりに大きいので、わたしたちは大いに祝福されて当たり前、その恵みを存分に味わうことがなければ申し訳が立たないのです。
 その恵みは、誰かが独り占めすべきものでも、この世の価値観で配当すべきものでもありません。ダビデが行ったように皆でともに分かち合うべきものです。なぜですか、それは恵みだからです。(Ⅰサムエル30:21~25)
投稿者 emi 時刻: 9:24
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by kakosalt | 2009-05-10 21:12 | ダビデの生涯と詩編

Saltによる聖書のメッセージ