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ダビデの生涯と詩編12 ダビデの人口調査

ダビデの生涯と詩編12 ダビデの人口調査
Ⅱサムエル23~24章
          
A 人口調査は罪なのか
  ○荒野をさまよった前後の人口調査(民数記1:2,26:2)
  ○イエスのたとえ話(ルカ14:28~32)
  ○主がダビデを動かした(Ⅱサムエル21:4)
  ○サタンがダビデを誘い込んだ(Ⅰ歴代誌21:1)
  ○主の許しを得てヨブに災いをくだすサタン(ヨブ1:12)
  ○イエスは御霊に導かれて誘惑を受けた(マタイ4:1)

B 祝福の中心は何か
  ○主が怒りを燃え上がったのは、人口を数えたからではない(Ⅱサムエル24:1)
  ○祝福の中で神を忘れたダビデとイスラエル(ホセア13:5~6)
  ○祝福の中心は神御自身であり、その周辺部は宗教的御利益
  ○御利益を求める者には落とし穴や袋小路が仕掛けられている

C キリストの影
  ○人が心奮わせ涙を流すのは実は知るも知らぬも「キリストの影」
  ○祝福の中には「キリストの影」がある
  ○世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのはあるべき姿ではない
  ○クリスチャンの責務はキリスト御自身を明らかにすること

D 力や栄光を数値化することの弊害
  ○ダビデの三勇士(Ⅱサムエル23:14~17)
  ○王は軍勢の多いことによっては救われない(詩編33:13~22)

E 主の手に陥ることを選択したダビデ
  ○7万人の民が疫病で死んだのはただダビデのせいではない
  ○ニネベに遣わされたヨナ
  ○ソドムをとりなしたアブラハム
  ○日本のために祈る祭司、語る預言者として
投稿者 emi 時刻: 7:22




ダビデほど波瀾万丈の生涯を送った人はいないでしょう。ダビデの生涯は、神の摂理の中にあって、イエスの地上での歩みの先行体験であり、クリスチャンにとっては追体験のモデルなのです。特に、その折々に残された喜びや悲しみの祈りは「詩編」となり、今日の至るまで、すべてのクリスチャンを慰め続けています。

 そんな「ダビデの生涯」を追いながら、詩編と合わせて学んで来たわけですが、「ダビデの信仰」には遠く及ばない私が、1年にわたってあれこれ偉そうにお話してきたことはとても心苦しいことです。私は私が経験してきた範囲でしか理解が及ばないので、「ダビデの生涯」をお伝えしても、実際よりはずいぶんスケールの小さいものになってしまったかも知れません。そのあたりの多少のお詫びの気持ちと、ダビデの残してくれた足跡への大きな感謝の気持ちをこめて、このシリーズの最後のお話をします。

 多くの苦しみの後、政治的にも安定期を迎えた晩年、ダビデは大きな罪を犯してしまいます。それが今日のお話の主題になります。それは何かと言うと、ダビデがイスラエルの民の数を数えたということでした。バテ・シェバとの姦通やそのもみ消しのための殺人が良くないことだというのはすぐにわかりますが、人口調査がどうして罪なのかという問題は若干わかりにくのではないでしょうか。改めて考えてみましょう。

 これは普通の感覚ではちょっと理解しにくい、デリケートな問題です。
 神は別の時代には、イスラエルの民に荒野をさまよった40年の前と後で、人口調査をすることを命じてもおられます。(民数記1:2,26:2)
 また、イエスは城を築くとき完成に充分な資金があるかどうか、その費用を計算することの大切さを説かれました。戦争の時には、敵を迎え打つ味方に充分な兵力があるかどうか、必要ならば講和を求めることの大切さについても語っておられます。(ルカ14:28~32)


 それなのになぜこのダビデの人口調査だけが、大きな災いを招くほどの罪なのでしょうか。聖書は、この人口調査に関して、ふたつの側面から語っています。
 Ⅱサムエル24:1では、「主がダビデを動かした」と記されています。ところが、Ⅰ歴代誌21:1では、「サタンがダビデを誘い込んだ」と書かれています。
 このふたつの記事は、矛盾するように感じられるかもしれませんが、聖書の表面上の矛盾を整合させるのは、人間の経験や感覚ではなく、さらに他の聖句との整合性ではかるべきです。

 ヨブ記を見れば、次々にヨブを襲った災いは、すべて主の許しを経たものであったことがわかります。    また福音書を見れば、イエスが荒野で誘惑を受けるために御霊が導かれたという記述もあります。このように考えると、この人口調査の背景にあるものが少し見えてきます。
 ダビデはそれを自分の意思で拒むこと出来ましたが、同時に主は今のダビデがそれ拒むことが出来ないこと、そして、その結果イスラエルが罰を受けて災いを被っても仕方がない霊的状態にあることを知っておられたのです。イスラエルは、かつてない繁栄と安定を得たことによってダビデ王にも国民にも慢心が生まれました。
 神の祝福に酔い、その祝福を与えてくださった御方を忘れてしまったのです。もし周辺諸国と総力を挙げて戦うことになったら、どれ程の兵を召集できるかを知りたい、それを広報して圧倒したいという気持ちが間違いなくダビデの中にありました。だから、数を数えたときに良心のとがめを感じたのです。(Ⅰ歴代誌21:10)

 「主なる神が怒って」と書かれているのは人口調査を行う前のことであり、その怒りの対象はダビデを含むイスラエルの全体だったわけです。
 イスラエルを懲らしめるために、王であるダビデの慢心を用いられたのです。私たちは何を学ぶでしょうか。オバマ大統領が誕生したのは、アメリカの国情を受けてのことです。日本では、自民党のリーダーがコロコロ代わり、誰もキチンと責任をとらないまま友愛鳩山政権に代わり、笑止千万の仕分け作業なんかをやっている。まさに日本国民の精神を反映しているわけです。悲しいかな、どこの国の国民も自分たちにふさわしいリーダーを選んでいるのでしょう。
 教会だってそうです。愚かな説教者を祭り上げ調子に乗らせるは、そういうメッセージを欲する人たちです。自分たちに都合のいいことを言ってくれる者を寄せ集めるのです。(Ⅱテモテ4:3)

 「傷つけられた」「ひどい目にあった」というのは、申し訳ないけど自業自得です。儲け話の詐欺にあった被害者たちほどみっともないものはないですね。欲深い奴が「楽」して「得」しようと思うから、騙されるのであって、それは、政治でも経済でも宗教でも何でも同じです。そういう祝福の中心である神を排除して、周辺の御利益だけ得ようという罪を明らかにするために、さまざまな落とし穴や袋小路をこの世に設けておられるわけです。これを仕掛けられたのはどなたでしょう。あるいはお許しになったのは誰ですか。神です。この世において一切の権威をお持ちの御方が、認められたのです。実務を担当してそそのかすのはサタンです。サムエル記は神が仕掛けられたという視点で表現され、歴代誌はサタンが実務を担当したという視点で表現されているわけです。そこに矛盾はありません。

 神の真の祝福とは何なのか、また、私たちは世に対してどのような認識を持ち、どのようにふるまうべきなのかを、わきまえておく必要があります。ダビデもイスラエルの民も祝福の中で、祝福そのものである御方を忘れたのです。あるいは軽くみたのです。
 このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(ホセア13:5~6)

 人が心奮わせ涙を流すのは、実は知るも知らぬも「キリストの影」に対してなのです。クリスチャンはその祝福を豊かに享受し、その秘密を鮮やかに解き明かす責務があるのではないかと思っています。世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのは、いずれもあるべき姿ではないのです。
 祝福の中には数々のキリストの影があります。私たちは神が与えてくださる祝福の中で、その本体である御方、実在である御方を慕い、感謝し、いつも覚えて礼拝することができるのです。
 困難や苦しみの中にいるときは、そこから逃れたい一心で神を求めます。しかし、肉の要求が満たされてしまうと、神を忘れてしまうのが人間の弱さなのです。ダビデとイスラエルの失敗から、私たちが学ばなければならないことは、今日の私たちにとっても極めて限実的に差し迫った事柄であることがおわかりいただけるのではないでしょうか。

 「数える」ということについて、もう少し別の角度から考えてみましょう。
 今年2009年を表す感じが決まったそうです。「新」という字ですね。
 選ばれた理由には、民主党による新政権や猛威をふるう新型インフルエンザに加え、イチローのメジャーリーグ新記録もあるそうです。そのイチロー選手に関することです。野球というのは数えるスポーツです。他の競技と比べても、野球にはやたら細かい記録がたくさんあります。いったい誰が数えているのかと思うくらいです。ほとんど草野球しか経験のない私が前人未踏の記録を打ち立てたトップアスリートのことを話すのもおこがましい限りですが、記録達成のプレッシャーがかかると、明らかに打席でのイチローの様子がおかしい。
 ものすごく簡単に言ってしまえば、「記録を追いかけると、野球そのものの愉しさが損なわれる」ということです。記録を目指すことが動機付けになると言う主張も当然あると思いますが、私はそれは「生きることの意義」や「愉しさ」ということに関する重要な議論だと考えています。200本のヒットも1本1本のヒットの積み重ねなわけで、基本は一球入魂の全力プレーです。それがあるとき、プレーする人も、見る人も純粋に野球が楽しい。数字を数えることに反対するわけではありませんが、力や栄光が数値化されることによって損なわれるものは少なくないでしょう。
 何万の大軍勢は、ひとりひとりの兵士のいのちなのですが、何万と数えてしまうと人格や個性や存在の尊さは消えてしまう。
 Ⅱサムエル記23章には、ダビデの勇士たちの名簿が出て来ますが、これは24章の数の記録とは違います。その中には、ダビデの三勇士もいます。この三人はダビデにただベツレヘムの井戸の水を飲ませるためでだけに、危険を顧みずペリシテの陣営を突破して、それをくみに行きます。しかし、ダビデはそれを飲もうとはせず、神に注ぐという何とも美しいエピソードが出て来ます。ダビデは戦場でおこるすべての出来事を神との関係性の中でとらえる信仰を持っていたはずでした。
 ダビデは、「王は軍勢の多いことによっては救われない」と歌っていたのです。(詩篇33:13~22)

こうした神を中心にした関係性が、24章の人口調査では完全に失われています。ダビデであってさえ、こうした罪に陥り、ダビデとともに苦楽をともにしてきた民でさえ、このように高ぶるのであれば、いわんや、日本の生ぬるい平和ボケの中で浮遊するようにいきている私たちは、あやうさを抱えて生きているのだと自らを省みる必要がありましょう。

 さて、この罪の結果、王であるダビデに対して、主は3種類の懲らしめの中からどれか一つを選ぶように言われました。 ①7年の飢饉、②3ヶ月間敵の前を逃げ、仇が追うこと、③3日間、国に疫病が蔓延することです。

 ダビデは悩み抜いた末、3日間主の手に陥ることを選びます。
 ダビデの心痛は自分の罪のために7万人のイスラエルの民が疫病によって倒れたことでしたが、(Ⅰ歴代誌21:8)それは、ダビデの認識不足であり、思い上がりです。主は、ただダビデの慢心のためだけに、罪のない7万人のイスラエルの民を巻き沿いにして疫病で打つというような理不尽はなさいません。疫病で倒れた民には、それにふさわしい罪があったはずです。
 それは、異邦人の町ニネベに遣わされたヨナとのやりとりや、ソドムとゴモラを滅ぼす前のアブラハムとのやりとりを見ればわかります。
 先にも、民がふわさしい指導者を選ぶと申しましたが、民の状態が指導者の選択にも反映するのでしょう。そこには相関関係があるようです。
 今、この地球上のあちこちで起こっているさまざまな出来事の背景には、必ずそこに住む人々の営みがあり、それをご覧になっている神の主権の範囲において、許されていることだけが起こっているだと私は理解しています。

 私たちは祭司です。今この時代の日本に生かされ、そこで感じる痛みや憂いは、預言者のそれと同じです。預言者たちが堕落していくイスラエルやユダを愛し、とりなしつつ、民には厳しく明確に語り続けたように、私たちもそうであるべきです。

 これで、一年にわたってお届けしてきたシリーズダビデの生涯と詩編はおしまいです。
投稿者 emi 時刻: 6:32
by kakosalt | 2013-02-25 21:11 | ダビデの生涯と詩編

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