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イエスのたとえ話9 良い牧者 ヨハネ10:1-21

イエスのたとえ話9 良い牧者 ヨハネ10:1-21



今日はヨハネ10章から、「羊の囲いのたとえ」と「良い牧者のたとえ」について、ともに分かち合いましょう。全体の流れと構成をとらえるために、まず、鍵になるヨハネの説明に注目してみます。まず6節です。「イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)と書かれている箇所があります。続いて19節には、「このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。」(ヨハネ10:19)とあります。いずれも、短い文章ですが、たとえを聞いた人たちのリアルな反応を写し取っています。1~5節までの「羊の囲いのたとえ」を聞かされた「彼ら」とは、「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々」です。つまり、シロアムの池で目が開かれた生まれつきの盲人を会堂から追放した人々です。(ヨハネ9:40)「羊の囲いに門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者」とは、彼らのことです。  彼らは自分たちを「盗人」だの「強盗」だの言われていることにピンと来ていません。前半の1~5節までの「羊の囲いのたとえ」だけでは、彼らに意味がわからなかったのです。そこで、イエスはさらに詳しくかみ砕いて7~18節の「良い牧者のたとえ」をお話しになったというわけです。そのみことばが語られると、今度はユダヤ人の中に分裂が起こりました。生まれつきの盲人が見えるようになったことは事実であり、それは喜ぶべきことのはずですが、彼らの中の多くはそれを喜ばず、「イエスは悪霊につかれ気が狂っているのだ」と言いました。しかし、そうは思わない人たちもいたのです。イエスのみわざに心をとめる人々がいたからこそ、後半のたとえもあったわけです。
羊の群れを混乱させるのは、羊飼いのフリをしてやってくる「盗人」そして「強盗」です。彼らは門から入って来ないで、「ほかの所を乗り越えて来る」と言われています。これは重要なポイントです。門とはイエスです。つまり、「偽の牧者は、門であるイエスを通っていない」ことになります。この当時、ユダヤの宗教指導者たちは、聖書を託されキリストを待ち望むように民を指導することが期待された人たちでした。ところが、彼らは預かった神のことばを自分たちの言い伝えで覆ってしまい、歓迎すべき御方を拒絶したのです。今日のキリスト教会でも霊的に同じことが起こっています。本来は羊を養うべき羊飼いが羊を混乱させ、羊を食い物にしている。このふたつのたとえは。そのことに対する強い警告なのです。「わたしは、門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)とはっきり書かれています。どう読んでも、読み違えることなど出来ません。イエスが門です。イエスを通って入れば、だれでも救われるのです。そのように書いてあります。イエスから、その名を呼ばれ、イエスという門を通って来たのではない偽物、つまり、「牧者でなく、また羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)は、「羊のことを心にかけていない」のです。(ヨハネ10:13) このような偽物が、教会という囲いを牛耳って、羊に牧草を与えず、自由を奪っています。「安らかに出入りすること」と、「牧草を見つけること」は、約束です。(ヨハネ10:9)イエスが来られたのは、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」だと書かれています。(ヨハネ10:10)囲いはありますが、そこから出ないように閉じこめるものではなく、「勝手に迷いでないように」また「外敵が侵入しないように」と、羊の安全のために造られたものです。羊飼いの声が届く範囲であれば、囲いから「安らかに出入りできる」のです。他の教団、教派の教えに触れてはだめ、あの集会、この礼拝に参加してはいけないなどと縛るのは不自然です。良い羊飼いに導かれた羊は牧草を見つけるのです。牧草とはもちろんみことばであり、霊的な満たしのことです。「自由に出入りした結果、牧草を見つける」これが、良い羊飼いについて行く羊の標準的報酬です。羊は羊飼いによって養われ、いのちを満喫するのです。
イエスはご自分を「良い牧者である」と宣言されました。ユダヤ人なら誰もが詩編の23編を思い出したことでしょう。偉大なイスラエルの王ダビデが、わが羊飼いと呼んだ御方がイエスであるということです。さらに、イエスが語られたふたつのたとえは、エゼキエルの34章をさらに深く解説した内容になっています。エゼキエルは、「羊を養わないで自分だけが肥え太る牧者が主がさばかれること」「彼らの手から主が羊を救い出すこと」「主がお立てになったひとりの牧者が羊を養われること」を預言しました。これらのエゼキエルのことばは、アッシリアに滅ぼされる前のイスラエルに対してのものです。ですから、パリサイ人たちもみことばに関する知識はあっても、全く自分たちが責められているとは思わなかったのでしょう。今日、ヨハネの10章を読んで心の痛まない牧師も大勢いるわけですが、彼らはイエスが責めているのは、自分ではない別の人のことだと信じているわけです。良い牧者は「羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:11)とまで言われています。これは、限度を超えた極めて異常なことを語っています。家畜を飼うのは家畜に良い思いをさせるためではなく、毛皮をはいだり、肉を食べたりするためです。いくらパレスチナ地方の羊飼いと羊の結びつきが強いと言っても、牧者が羊のためにいのち捨てることなど現実にはあり得ない狂気の沙汰です。 ですから、パリサイ人の多くが、「気が狂っている」と言ったのは、ある意味当然のことなのです。「わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令を父から受けたのです」(ヨハネ10:18)イエスはさらにあり得ないことを語っています。これはヒューマニズムで理解できることばではありません。イエスを「偉大な道徳家」などと評している人はこのみことばをまともに読んだことがないのでしょう。「自分からいのちを捨てること」を一般的に自殺と言います。羊のために自殺する羊飼いがいるとしたら、その羊飼いは大馬鹿野郎です。いのちを粗末にしてはいけません。しかし、イエスは「羊を愛するあまりいのちを落とす」とは言っていません。「死ななければならない運命にあるのだ」とも言っていません。「自分から命を捨てる」と、間違いなくはっきりおっしゃっています。これは、「十字架に架けられた」のではなく、「こっちから架かってやるのだ」という意味です。ですから、十字架というのは、ある側面から見れば神の自殺なのです。人が神の子のいのちを奪ったのではありません。自殺がある意味、英雄的な魅力を秘めているのは、十字架の影だからです。しかし、人の自殺はあくまで自分のためです。イエスがいのちを捨てることは人の身勝手な自殺とは、全く意味も次元も違います。イエスの死は、「羊にいのちを得させ、それを豊かに持たせるため」のものです。羊のために良い牧者として死ぬのです。 それは、「世の罪を取り除く神の小羊」たればこそ実現できたことです。いのちを捨てるには「捨てる権威」が必要です。資格と言い換えてもいいでしょう。この御方には罪がありませんでした。だからこそ、「捨てる権威」があるのです。「権威」とは父の命令であり、それに服従することを意味しています。人にはいのちを捨てる権威はありません。わたしたちのいのちは借り物だからです。正しく管理する責任はあっても捨てる権威などあろうはずがないのです。「なぜ人をなぜ殺してはいけないか」「どうして自分のいのちなのに自殺してはいけないのか」今の大人達は、現実に絶望した子ども達に「なぜ」「どうして」と聞かれると、きちんと答えられないと言います。実は答えは簡単です。いのちは借り物です。借りたものはちゃんと管理して返さないと駄目です。
「権威」ということについて、イエスがピラトとことばを交わされた場面があります。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」とピラトは、恐れの中で語りました。(ヨハネ19:10)しかし、イエスは「もし、それが上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです」(ヨハネ19:11)とお答えになっています。この瞬間、ピラトは迷える羊としてイエスという門の前に立っていたのですが、その門から中へ入ろうとはしませんでした。神の子イエスと向かい合ったピラトは、自分がさばくのではなく、自分がさばかれている感覚によって恐れたのです。しかし、ピラトはプライドのゆえに、こともあろうに最も権威ある御方に向かって、自分のこの世の権威を振りかざしたのです。ピラトに十字架につける権威があったのではなく、イエスにいのちを捨てる権威があったのです。それは、イエスが父の命令に服されたので、その権威がピラトを圧倒した場面でした。私たちもそれぞれにピラトの座についてイエスを評価します。ピラトはイエスを擁護し、釈放しようと努めますが、最後には「このさばきは自分とは関係ない」と宣言します。これはこの世の多くの人が取る態度と共通しています。
 「盗人」とか、「強盗」と言われているのは、他人のものをこっそり盗んだり、無理に奪ったりするからです。単に「もの」だけでなく「他人の所有権」をも奪うのです。神の権威を盗み、栄光を奪う連中は最大のクズです。イエスさまも、パリサイ人や律法学者をどれぐらいひどく罵られたか見てみればわかります。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(マタイ23:13)他にも「目の見えぬ手引きども」(24)「白く塗った墓」(27)「おまえたち蛇ども。まむしのすえども」(33)などときっと激しい口調、険しい表情で言われたはずです。悪口と言えば悪口とも言えるこのような手厳しい評価をしっかり見つめるべきです。「互いを裁きあってはいけません」などと言って、そんなところだけ、律儀にみことばを使うのは卑怯です。自分の立ち位置が曖昧な人は、自分が下手につっこまれたくないので、吟味する義務を怠って寛容なふりをするものです。神の栄光を盗もうとする者は最も悪魔的です。「自分から語る者は、自分の「栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:18)
良い牧者についていく羊の特徴は何でしょうか。それは「彼の声を知っている」とおいうことです。他の人について行かずに逃げ出すのはなぜでしょうか。「その人の声を知らないからだ」と書いてあります。良い牧者に導かれるのは、その声になじみがあるからで、自分の名をはっきり呼ばれたからです。(ヨハネ10:3~5)9章の終わりでイエスはこうおっしゃっています。「もし、あなたがたが盲目であったら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:41)この御方の声を聞くためには、私たちはまず「見えないこと」を告白する必要があります。羊が自分で牧草を見つけられるなら、羊飼いはいらないのです。私たちは見えません。光がないところでは視力が無意味なように、霊的なものは聖霊の光なしには見えません。それが「見える」と語る人々は嘘つきであり、盗人、強盗なのです。私たちには見えませんが、この御方が確かに私を呼んでおられること、その声が確かに自分の羊飼いである方の声だとわかるのです。羊飼いは私を私以上に、あなたをあなた以上に知っておられる方です。「わたしはわたしの者を知っています。また、わたしのものはわたしを知っています」(ヨハネ10:14)それはどれくらいの程度だと書かれていますか。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」(ヨハネ10:15)父と御子がひとつであるぐらい、私たちと牧者は一体なのだとみことばは語っています。
投稿者 emi 時刻: 21:33
by kakosalt | 2013-03-17 09:08 | イエスのたとえ話

あなた方は私を誰だと言いますか


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