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イエスのたとえ話18 自分を高くする者は低くされる ルカ18:9-14

イエスのたとえ話18 自分を高くする者は低くされる ルカ18:9-14

自分を高くする者は低くされる (イエスのたとえ話 ⑱ )
  ルカ18:9~14

A 地上と天での立場の逆転
   ○「あとの者が先になる」(マタイ20:16)
   ○「先の者があとになる」(マタイ19:30)
   ○たとえとエピソードの関連
     →みことばを日常に適用すること   
     →自分のもの差しではなくみことばのものさしで測ること
   ○逆転の鍵は信仰

B パリサイ人の祈り
   ○わたしは悪い者ではない
   ○わたしは良いことを行っている
   ○動機は何か
   ○「良いことを長期にわたって忠実に行えば良い者になれる」という錯覚
   ○ふたり  
   ○宗教は心の中の現象

C 取税人の祈り
   ○砕かれた悔いた心(詩編51:17)
    ・遠く離れて立ち
    ・目を天に向けようともせず
    ・自分の胸をたたいて
   ○ ひとり
   ○ 救いはいのちの変化

D 神の前で自分を高くすることの虚しさ
   ○「粉飾」と「偽装」
   ○「名を上げること」と「名を残すこと」
   ○「神のあり方を捨てられた御子」と「人のあり方を忘れた罪人」

E 救いは神御自身の義を表現する
   ○「恵み」「贖い」「値なし」
   ○神御自身の義
   ○信じる者の義
投稿者 emi 時刻: 17:37




「このようにあとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16) これは前々回にお話した「ぶどう園のたとえ」の結びのことばで、たとえ全体の教訓として語られています。実はこのフレーズは弟子たちにとっては聞き覚えのある表現でした。 おそらくこのたとえを話されるよる少し前に、金持ちの青年がイエスのもとにやって来て、問答の末悲しんで去っていくという出来事がありましたが、その際にイエスは、このことばに非常によく似たことを語られたのです。ですから、間違いなく弟子たちはそのことを思い出したはずです。この時イエスが語られたことばは、「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:30)というものでした。ぶどう園のたとえの結びのことばとは、ことばの順番が逆になっています。 「ぶどう園のたとえ」では、一番あとから仕事に加わった者が早朝から働いていた者と同じ報酬を受けることで、主人の気前よさの恩恵を受けるという点で、「あと」と「先」が逆転したわけですが、金持ちの青年との問答の後に語られたのときは、反対に「先」をいっているように見える彼が弟子たちの「あと」になったというものです。 イエスはこのように、たとえを使って話した内容について、実際の具体的な人物や場面に当てはめて語られました。イエスは、重要な内容に関しては、同じテーマについて少しずつかたちを変えながら、繰り返し弟子たちの印象に残るように語られたことがわかります。私たちもみことばを非日常的な観念の世界でとらえるだけではなく、日々の暮らしの中で、イエスのことばのひとつひとつを正しく適用すべきです。たとえば、私たちが具体的にどれほどの祝福を受け如何に恵まれているかは、自分がすごく羨ましいと感じている人たちがあとになっていくのだという、みことばの事実に合わせて評価するべきです。目に見える現実に自分のもの差しではなく、みことばのもの差しを当てて、事実を正確に測るとき、物事の真実が見えるのです。 ただし、先の者とあとの者の順序が必ず逆になると言っておられないことにも注意する必要があります。イエスは、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」(マタイ19:20)と言われました。ずっと先のままの人もいれば、あとのままの人もいるはずです。要するに、イエスに対する信仰の有無によって逆転があるという話です。信仰の実質がなければ、地上でも「あと」天でも「あと」です。場合によっては、地上では最先端、天では門前払いとなるわけです。
「金持ちの青年の出来事」はたとえ話ではないので、今日はよく似たテーマを扱った別のたとえを取り上げようと思います。「パリサイ人と取税人の祈り」についてのたとえです。このたとえは、「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たち」に対して語られたものです。あの去って行った金持ちの青年にとっても、必要なメッセージだと思います。(ルカ18:9~14)このたとえには、パリサイ人と取税人という対照的な人物が登場します。このふたりが祈るために宮に登るのですが、義と認められたのはパリサイ人ではなく取税人だという話です。 これもいわゆるパラドックス(逆説的真理)です。ルカの福音書の中では、何度もこのパターンが登場します。7章には、イエスさまの足に香油を注ぎ髪の毛でぬぐった罪深い女と彼女を軽蔑したパリサイ人シモンが出て来ます。10章には、良きサマリヤ人と冷たいユダヤの宗教指導者たち。そしてもてなしに心をくだくマルタと主の足元にすわってみことばを聞くマリヤが出て来ます。15章には、放蕩三昧の末に帰ってきて父の愛に触れる弟息子と父のそばにいながら父の愛を理解しない兄息子が出てきます。16章には、全身おできの貧乏人ラザロと毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちが出てきます。いずれも2種類の人物を対比させながら、どういう人が神に受け入れられ、喜ばれるのかを教えています。これらのいずれの記事にも示されている共通の事柄は、「神の評価は私たちの人間的な判断とは全く異なっている」ということです。このような人間的な価値観をどんでん返しにするようなかたちで伝えることによって、メッセージをいっそう印象づける効果があるわけです。先程もお話したように、あるときはそれは「たとえ話」であり、あるときは「具体的なエピソード」として、いずれも神のことばとして福音書記者がまとめています。いずれも、人間的にすばらしい評価を受けると予想されるものが、神にとってはむしろ忌まわしいもので、逆にとうてい神に受け入れられるはずのないものが、受け入れられています。このたとえにおいても、「自分は神にふさわしくない」という取税人にとっても、他の人たちにとっても当たり前の事実を認め受け入れることによって、その告白の真実と神のなだめによって神に受け入れられるのです。これが救いの本質です。人々が尊敬し、自らも義人を自認するパリサイ人は退けられました。みことばは、人のもの差しの歪みやズレを明らかにしながら、神の基準を示しています。
 パリサイ人の祈りを見てください。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを感謝します。私は週に2度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11~12) この祈りを二つに分けて分析しましょう。前半部分は、「私は他の人のように、~(悪い者)でないことを感謝します。」という祈りです。これはどうでしょうか。パリサイ人は嘘を言っているわけではありません。彼は正しいのです。ゆする者であったり、不正な者であったり、姦淫をする者である方がよいのではありません。神さまに受け入れ、赦されるためには、そういう弁解しようのない大きな罪を犯さなければならないなんてことは絶対ないわけです。ここで問題なのは、取税人を持ち出して、「こいつよりマシだ。だから感謝するのだ」と言っている点です。つまり、そういう「~する者」と「~しない者」がいて、「自分は(しない者)だから立派なんだ」と言っているわけです。「~する、~しない」は、律法から発生した当時のユダヤ教の問題です。当時ローマの統治下にあったユダヤ人は、政治的にはローマの権威に屈しながらも、律法の約束を守ることで宗教心を満足させ、律法を捨て、ユダヤ人でありながらローマに身も心も屈している取税人を徹底的に軽蔑して優越感を持つことで、ローマへの劣等感をはらしていたわけです。このように優越感と劣等感は表裏一体なのです。
祈りの後半は、「私は、~(良いこと)をしています。」というものです。ここでも、彼は多分本当のことを言っているのでしょう。週に1回しか断食していないのに2回したと言ったり、20分の1か15分の1しかささげていないのに10分の1ささげたとごまかしたりしているのではないと思います。申告通りの生活を送っているのです。これらは何ら批判されるべきものではないでしょう。むしろ他の人もそうであるべきでしょう。問題は動機です。何のためにこれを行っているかというと、自分の徳を積み上げて神に義と認められるためです。それが問題なのです。
もう一度整理します。前半の祈りは「(悪い者)ではない」ということでしたが、後半の祈りは「(良いこと)を行っている」ということです。さすがにいきなり「自分は良い者です」とは言えませんが、「良いことを長期にわたって忠実に行えば良い者になれる」という価値観とそこへ向かう意志があるわけです。これが、人間の宗教であって、私が良く言うところの「人から神への上昇のベクトル」なのです。これは、聖書の教えとは正反対のものです。少し間違っているから、考えを修正しなければならないのではありません。聖書の語る救いとは正反対の教えです。
一方取税人はどうでしょうか。彼はパリサイ人のようにあれこれ言っていません。ただ一言です。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)これが、人間が神さまに受け入れていただくときに申し上げるべき、最善にして最高のことばです。実はこれ以外、人が神の前に言うことばなどないのです。取税人は、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った」と書いてあります。これは、具体的なある場面の描写ではなく、たとえの中の設定です。つまり、これらの表現には「神さまに近づけない、顔向けできない、そしてこの間違った道を心ならずも選んでしまった」という深い悔悛の情が表現されています。しかし、だから神さまに背を向けるのではなく、自分の中にある何かではなく、ただ神さまの憐れみにすがるという態度が生まれるのです。神は「砕かれた悔いた心」をさげすまれる方ではないと書かれています。むしろ、そのような心こそが、神への本当のいけにえなのだと聖書は語っています。(詩編51:17)取税人が神さまに届く祈りをしたのに対し、パリサイ人は「自分の心の中」で祈っています。(ルカ18:11) 宗教はどこまでいっても「心の中」の問題です。その人の心の中だけでグルグルグルグル回っているのです。ある時はゴキゲン、ある時は救われた気分だが、ある時は絶望し、みじめな気持ち。そういう繰り返しです。いつも自分の心を見つめている人は、人のことも気になります。人の目を気にし、人と自分の値打ちを測ります。偉い人にはこびて、ねたんで、おじけづき、弱い人は軽んじ、さげすみ、おさえつけます。取税人はパリサイ人を気にしていませんが、パリサイ人は取税人を気にしています。取税人は、パリサイ人が自分を義とするためにどうしても必要なアイテムだからです。もう一度念を押します。宗教は天に届きません。それは所詮「心の中の現象」です。宗教に熱中する人は、自分で自分を励ましたり慰めたりしながら、優越感や劣等感をもって一喜一憂するわけです。仏教もイスラム教もキリスト教も同じです。救われた気分は、聖書が語る救いとは無関係です。天に届かぬ祈りをどれほど積み重ねても、くたびれるだけです。
私たちは神の前に「ひとり」で立たなければなりません。自分を優位に見せる誰かと比較して測るのではなく、イエスによって測るのです。そのことを知っているなら、神の前に自分を高くする要素などどこにあるでしょうか。そんなものはありはしないのです。誰だって侮辱されたり、差別されたりして、本質とは異なる低く不当な評価を受けるのは嫌です。人間が人間を理由なく侮辱したり差別したりすることは赦されないことです。人が人に対してすることでさえ決して赦されることではありません。しかし、私たちは神の子を侮辱し、差別したのです。それでも神の子イエスは黙ってそれを忍んでくださいました。そんなとき、人間は怒りにまかせて簡単に暴言を吐くものです。ののしられたらののしり返し、やられたらやり返すものです。しかし、イエスはすべてを受け入れてくださいました。(Ⅰペテロ2:22~24)そして、神の子としてではなく、人の子として、ご自分の本来のあり方を捨てて、低く低くへりくだってくださったのです。このような御方の前に立つときに、私たちは何を誇りにしようというのでしょうか。この御方の前に、おのれを粉飾、偽装して、少しでもよく見せよう、高くしよう、立派になろうという魂胆はあまりにも愚かです。この御方のことをお伝えするにあたって、自ら師を名乗り、自分を敬うことを強要したり、自分の名を上げることや名を残すことを目論だり、さらにその家族や親族で役得を世襲するという浅ましい習慣を作ることは、あまりにも愚かすぎます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神はキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、御自身の義を表すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:23~26)取税人に義と認められる要素はありません。イエスの義が彼を覆うのです。私たちも同じです。イエスの義が私たちを覆っているのです。
投稿者 emi 時刻: 17:33
by kakosalt | 2013-03-28 23:47 | イエスのたとえ話

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by kakosalt
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