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約束の地カナン1 ヨシュアの登場

約束の地カナン1 ヨシュアの登場



1月10日        ヨシュアの登場(約束の地カナン①)

 今年はヨシュア記をともに学んで行くことに決めましたが、乱暴に読むと、このヨシュア記ほど恐ろしい書物はありません。実際、欧米の列強諸国は、この「ヨシュアの聖戦」になぞらえて、先住民を殺戮し、土地を侵略し、文明を破壊してきたわけです。いわゆるキリスト教の恐ろしさは、オウム真理教どころではありません。「肉」が良かれと思って行っても、最低最悪の結果を生むこともあります。イエスに出会う前のパウロが、兄弟たちを迫害したのも、彼が神の為に正しさを追求しや結果でした。 何しろどう読んでも神がはっきりと人殺しを命じているわけです。間違った適用をすれば、取り返しのつかない失敗をすることになります。
 
メキシコのインディオたちが伝える「征服の踊り」というのがあります。マヤやアステカなどの文明を壊滅させ、征服者になったスペイン人たちの仕業を忘れないために踊られるのです。踊り手は、スペイン人に似せた仮面をかぶり、左手に十字架、右手に剣をもって、それを交互に示しながら、「いずれを選択するのか」と迫るような仕草をしながら踊るのだそうです。ヒップホップや社交ダンスも別に悪くはないですが、こういう踊りも、同じ程度には、メディアで取り上げないといけません。そンな風にはなっていないところが、十分に政治的なコントロールによる文化侵略の結果だと私は感じています。
イギリスをエジプトに見立ててエクソダスしてきた連中は、インディアンたちを虫けらみたいに殺して国家を打ち立て、世界中にキリスト教国家としての、自分たちの善意を押しつけているわけです。イラクやアフガンでやっていることもその延長です。
もし、コロンブスが15世紀末にアメリカ大陸ではなく、予定通り黄金の国ジパングに着いていたら、歴史は違った展開になっていたでしょう。また、豊臣・徳川政権がキリスト教を迫害し、鎖国してくれていなかったら、日本は今よりさらに情けない国になっていたのではないかと想像します。大所高所から俯瞰すれば、ある意味、「鎖国万歳」「キリスト教迫害万歳」なのですよ。実は。今年になってNHKの大河ドラマで「龍馬伝」が始まりましたが、幕末も江戸城を無血開城した勝や西郷といった自分の立場を越えた大局的な判断が出来る英雄がいたので、明治における侵略も免れたわけです。別にナショナリズムを煽る気はありませんが、母国語が、スペイン語や英語になっていたら、今以上に日本はわけのわからない国になっていたでしょう。

少し前置きが長くなりましたが、自分の国や自分自身の価値を中心に読んで行くと、聖書は「救い」ではなく「破壊」の本です。みことばは人を慰め励ますのではなく、人を傷つけ貶めます。特にこのヨシュア記は、正しい信仰なしに読めば、どうにも理解のしようがありません。人間中心ではなく、神中心に読むことが鉄則です。カナンの地に祝福と同時に多くの異邦の民がいたように、ヨシュア記を読むにあたっても、祝福の周辺には、武器を持って襲いかかってくる敵がいるというということです。何となく読んでいるだけでは絶対何も得られません。
出エジプト最大の功労者であり、傑出した指導者であったモーセは、約束の地カナンを目前にして死にました。エジプトを出て来たとき成人に達していた者の中で約束の地カナンに入れたのはヨシュアとカレブのたったふたりだけです。主はモーセがカナンの地に足を踏み入れそこで安息することを地上ではお許しになりませんでした。勿論、モーセには特別な配慮があるのですが、モーセは「律法の体現者」ですから、どうしてもカナンには入ることは出来ないのです。律法によっては、人は義と認められないからです。モーセの従者であったヨシュアは「救いの象徴」であって、「信仰」言い換えれば「新しいいのち」の体現者です。

ヨシュアの本名であるホシェアは「救い」の意味。それをモーセがヨシュアに改名したのですが、ヨシュアという名前の意味は「主は救い」という意味です。ヨシュアという名前は「ヤハウェ」と「ホシェア」に分解出来ます。ヤハウェは「主」ですね。ホセアはヨシュアの本名です。日本語の聖書ではヨシュアですが、ヘブライ語の発音により近づけると「イェホシュア」となります。ホは無声音に近いので、現代のユダヤ人は「イェシュア」と呼びます。さらにガリラヤ方言で語尾のアが消えるので「イエス」となります。つまりヨシュアは、救い主イエスのモデルなのです。

神はアブラハム、イサク、ヤコブの神です。それは三位一体の神の称号です。アブラハムは父を表し、彼を通して「神の約束」が与えられました。イサクは御子イエスを表し、モリヤの山での出来事は、「死と復活」がはっきりモデルとして示されています。また人を押しのけても祝福を横取りしようとする計算高いヤコブがイスラエルに変えられてく姿を通して、約束を得させるために死と復活を経験させてくださる豊かな「聖霊の働き」を見ることが出来ます。そして、ついにヤコブの12人の子どもたちが、約束の地カナンを獲得していく様子がヨシュア記に描かれているのです。旧約におけるヨシュア記は、ちょうど福音書と使徒の働きのような関係で、モーセの五書と対応しています。ですから、使徒の働きを通してヨシュア記を読むのです。12部族は人殺しをしてカナンを占領していきましたが、12弟子はイエスの御名の力を示し、福音を語りました。その恵の時代のモードで読まないと、「犯罪者を石打にせよ」となるわけです。

ヨシュア記においては、私たちが選ばれ召されたことの責任の厳粛さと、祝福の大きさがリアルに描き出されています。救い主イエスにあって既に獲得しているはずのこの良き地の祝福を、実際に経験できるかどうかは、私たちの信仰と従順にかかっているのです。
聖書を見る限り、「エジプトを出ること」と「約束の地を獲得すること」は、明らかにふたつの段階があることがわかります。エジプトを出て来たのに、約束の地を獲得できた人たちと荒野で死んだ人たちがいるからです。厳密に言えば、救いはひとつですから、それは元来ひとつの救いの中に含まれていたはずです。エジプトを出て来た者は、カナンの地に入るべきだったのです。新たな救いや資格がいるわけではありません。人の不信仰がカナンで安息することを遅らせ、そして拒んだのです。(ヘブル3:16~19)だから、安息を得られない人たちは怒りの対象になるのです。神の約束は生きています。神は真実ですから100%約束を守られます。破るのは私たちの側です。ある場所である時間に待ち合わせをします。その日その時、イエスはその場所におられます。しかし私が、「まさかイエスさまが私とそんな時間に個人的に会ってくださるなんてあり得ない」と思って、その日その時その場所へ行かなければ会うことは出来ません。会えないのは誰のせいですか?私です。これが約束の性質です。約束はひとりでは交わせず、ひとりでは果たせない。そしてこのことが今年の重要なテーマになります。
エジプトから出て来た人たちは。信じたのに何かが足りなかったのではなく、「聞いた人々と信仰によって結びつかなかった」と表現しています。(ヘブル4:2)神は安息につけずに荒野で死んだ人々に対して怒っておられるのです。

 民数記には、不信仰によるイスラエルの失敗や敗北が綴られていますが、ヨシュア記には信仰による戦いの結果、勝利を得ていく様子が書かれています。ここで強調したいのは、「カナンの地」の祝福は、単純に来たるべき「あの世」の天国モデルではなく、それは「この世」で「今」まさに「すべての」クリスチャンが受けることができる恵みを現わしているのだということです。イエスのおことばどおり、「神の国は私たち自身のただ中にある」からです。念を押しますが、その約束の地カナンに入れるのは、モーセによって体現された「律法」ではなく、ヨシュアによって示されている「信仰」です。神の国は、私たちの中からはじまり、今イエスと共にあるこのときは永遠につながっている、しかも、その恵みは一部の訓練されたクリスチャンだけではなく、すべての人に開かれている。私はそう信じています。

では、実際にヨシュア記を細かく見ていきましょう。
「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:2~3)

何より先に、モーセの死が強調されていますが、これは律法の終わりを意味しています。ヨシュア記においては、つまり約束の地カナンにあっては、律法とは違う原理、法則で物事が進んでいくということなのです。神は約束の地を獲得するにあたり、4つのことをおっしゃっています。①立って ②渡り ③行き ④足の裏で踏め です。まず、信仰によって立ち上がることです。38年病で臥せていた人に、イエスは「床を取り上げよ」と言われました。第2段階は、信仰によって渡ることです。境界線を越えることを意味しています。闇の支配から光の支配へ、死の力からいのちの力へ渡ることです。そして、信仰によって行くこと。イエスは目の見えない人に「シロアム(の池)に行って洗いなさい」と言われました。そして最後は、信仰によって足の裏で踏むことです。実際に自分の足で踏みしめるとことを約束どおりに獲得することができるのです。見渡すだけでなく、その土地を実際に歩き周り、足の裏で感覚的に土地を感じることです。イエスはその土地への働きかけをやめるとき、「その土地の土を足から払い落として」という表現を用いられましたが、その逆です。足で踏むということは、その土地を知り、関係を結ぶことです。今、ここで、私の足の裏が踏みしめた土地に関して、約束が成就するのです。信じたとおり、私たちがこの4つもプロセスを実行したときに、まさにそうなっていくのです。
ここで考えたいのは、エジプト人とエジプトを出てカナンに入らずに死んだイスラエル人とどちらが残念度が高いかという問題です。子羊の血の力を経験し、紅海の水底を渡って来たにも関わらず、荒野でさんざん苦しんで、「エジプトにいた方が良かった」とか言いながら、カナンに入らずに死ぬんですよ。これ以上残念なことはありません。でも実際、この「残念系クリスチャン」がどれだけ多いでしょう。エジプトを出た青年の中で、ヨシュアとカレブのたったふたりだけが約束の地に入るわけですが、その秘密は民数記にあります。

主はモーセに「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」という指示を与えました。
 12部族から一人ずつが選び出され、パランの荒野の宿営から送り出されました。12人はそれぞれの部族を代表するリーダーです。この12人の中にヨシュアとカレブが含まれていました。主がイスラエルに与えようとしておられる約束の地について、その住民が強いか弱いか、人数は多いか少ないか、天幕暮らしか城壁があるか、土地は肥沃か、木が茂っているかなどを細かく調べてくるよう指示されました。そして、ちょうどぶどうが熟す時期だったので、土地の果物を取ってくるようにも指示されました。(民数記13:17~20)

もちろん、主は、そこがどんな土地で、どんな民族が住んでいるかをご存じでした。そもそもイスラエルがエジプトを出てカナンに来たのがなぜ今なのかといえば、それは主によってよって「アモリ人の罪が極みに達した時」と定められていたのです。要するに、そこに滅ぼされるべき民が、そのタイミングで滅ぼされるのを待っていた。神はその道具としてイスラエルを使おうとされたという側面があるのです。言い換えるなら、火で滅ぼされたり、水で滅ぼされたりする代わりに、イスラエルの兵隊が使われたと考えるべきだということです。ここで覚えたいのは、民族に優劣があって、イスラエルが善で異邦人が悪だというわけではないということです。出エジプトしてきた人たちも信仰がなければ荒野で滅ばされているわけです。要するに、信仰があるかないかということが、イスラエルか異邦人かということよりも大事であって、罪人はみな等しく、神の憐れみによらねば、滅ぼされて然るべきものだということです。私が「人間中心ではなく神中心で読まないといけない」と言っているのはそういうことです。
主が12人の斥候を送ってカナンを偵察させたのは、約束の地がどれほど素晴らしいところであるかを見せるためでした。ちょうどぶどうの収穫の時期だったので、その土地のすばらしさはいっそうよくわかったはずです。

ここでもう少し私は立ち止まって考えたいと思います。もし、12人が偵察に行かなければ、みんなでカナンの地にすっと入っていけたのではないかと私は想像するのです。ただ効率よくより多くの民を救うことが目的なら、主は間違いなくそうされるはずです。つまり、カナンの様子をあえて見せないという方法をとるだろうということです。
しかし、主はあえて多くの落伍者が出ることを承知で、予めカナンの様子を見せられたのです。それはなぜでしょうか。神は私たちに、ただ単にわざわいを逃れさせ、何となく豊かにすまわせ、くだらないアホの一つ覚えみたいな讃美を受けたいのではないということです。つまり、きちんと神はどういう御方であり、その祝福の本質が何であり、約束がどれほど真実であるかをお示しになりたいのです。たとえ、12人のうちの10人が脱落してもです。民のほとんどが荒野で死んでも、それでも神を信じる人たちを求めておられるのです。ふるいにかけるという表現は適当でないかも知れませんが、主は私たちの動機を探られます。信仰を試されます。信仰は惰性や習慣ではない。道徳や教条ではないのです。神という人格に対する深い信頼です。そしてその信頼をベースにした具体的な行動です。

12人はカナンを見て回りました。ヘブロンというの町の様子についてはかなり詳しく書かれています。ヘブロンには、アブラハムがヘテ人から買った洞窟があります。イスラエルの父祖3代、つまりアブラハムと妻サラ、イサクと妻リベカ、ヤコブとレアの墓があるからです。そこは、アナク人が住んでいました。そこで切り取った一房のぶどうの枝は、棒にぶら下げて二人がかりでかつぐほど巨大なものでした。これは、神の約束の確かさと祝福の大きさを象徴するお土産となったわけです。40日後、12人は帰ってきて、民全体の前で見聞した事実を報告しました。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です」
ヨシュアとカレブ以外の偵察隊のうち10人は、「カナンが乳と密の流れるすばらしいところだった」と伝えて持ち帰った果物を示しはしますが、しかし、「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました」と、まるでそこへ攻め込んで獲得するのは無理だと言わんばかりの報告をしたのです。カナンの地は、乳と密の流れる空き地ではなかったのです。当たり前です。素晴らしい場所だから民が住み着き、大きな町が出来ているのです。

民はざわめきますが、カレブはこれを鎮め「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」と前向きな発言をします。一方、他の10人は「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い。あの土地は、住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。しかも住んでいるのは伝説の巨人ネフィリムの子孫だ。彼らにくらべたら我々はイナゴみたいにちっぽけなもんだ」という情報を流したのです。
面白いなと思うのは、カレブは「断然上っていくべき」「必ず勝てる」と言っていますが、他の10人は、「あの民に向かって上っていくのは不可能だ」と言っている点です。正反対のことを言っており、勝てる確率が「7対3」だとか「4対6」だとかいう話ではなく。10か0か断言している点です。
同じ時期に、同じところへ偵察に行ったのですよ。12人はみなそれぞれの部族のリーダーに選ばれる人で、情報の収集能力や分析力、表現力において、それほど偏差値の違う人たちではないはずです。決してヨシュアとカレブだけが優秀だったわけではないと思います。では、何が違っていたのでしょう。それは、「信仰」です。
「約束の成就だ。主はすばらしい」となるのか、それとも、「約束はこうだし、みことばはこう言ってるけど、実際にはこうだし、自分には無理だし、あれをこうするために、それをああしてこうして・・・・」とウジウジ考えるのか。信仰があるのとないのとでは、ここまで決定的に意見や判断が分かれるのです。
残念ながら、後者に当たる人々が何と多いことでしょう。こういう人は、神を怒らせ、安息に入れず、荒野で死ぬのです。何とも「残念な感じ」で一生を終えることになります。皆さん、今年はこの「残念系クリスチャン」から脱却しましょう。

さて、2種類の報告を聞かされた民は、ヨシュアとカレブを信じることも、残りの10人を信じることも出来ました。民は10人の悲観的な情報を信じてしまいました。そして夜通し泣き言を言った上、モーセとアロンにこう言ったのです。
 「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ」(民数記14:1~4)

ヨシュアとカレブは、「我々が主の御心にかなうなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主にそむいてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」と、再度、正しい情報と正しい戦力評価を伝えます。
実際、彼らは手強く恐ろしいのです。自分たちだけなら、確かにあまり勝ち目はありません。しかし、主が我々と共におられるなら、勝利は間違いない。しかも、その土地を与えるというのは、単なる民の希望ではなく、主の約束なのだから。
これがヨシュアとカレブの考えです。
すべてのことに主を勘定に入れ、主を第一にする。
自分たちの真実ではなく、主の真実に頼る。
これに尽きるのです。年始にあたり、ヨシュア記の励ましのことばに奮い立ち、霊を熱く燃え立たせたいものです。
私の足の裏が踏みしめたその場所だけ、私のものになります。あなたの信じたとおりになる。それが原則です。信じて獲得し、豊かに味わう年にいたしましょう。
by kakosalt | 2013-06-07 19:46 | 約束の地 カナン

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