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約束の地カナン10 祭司のつとめ

約束の地カナン10 祭司のつとめ



11月7日 祭司のつとめ(約束の地カナン⑩)

 今日は約束の地におけるレビ族の取り扱いについて注目しながら、今日の私たちの祭司のつとめについてともに考えていきましょう。
 12部族の最後に、レビ人の町が選定されました。レビ人には他の部族のように相続地は与えられませんでしたが、城壁で囲まれていた町とともに家畜を育てる放牧地が与えられました。
 又、神からの相続地が与えられるときに、主への奉仕者であるレビ人が最後であったということも覚えておきたいと思います。レビ人にとっては、神御自身が相続地であり、宮に仕える奉仕のすべてが財産だったのです。
 私は神の本質は祝福です。信仰の結果は祝福なのです。アブラハムへの約束も祝福でした。しかし、多くの場合、クリスチャンを自称する方々であっても、祝福というものを勘違いされていることが多いようです。「御利益」と呼んだ方がいいような事柄を祝福の全てだと考えているのではないかと思います。
 私は、「祝福の中心はイエス御自身の人格を味わうことだ」と言い続けています。旧約の律法の時代におけるレビ人の存在やその取り扱いを見れば、そのことがよくわかります。神に直接仕えるレビ人から周辺の祝福を取り上げることによってその本質的な祝福に注目するようにモデル化されていることがわかります。
 
 レビ人には、ケハテ族、ゲルション族、メラリ族の3つの氏族があります。ケハテ族はアロンの子孫とそうでない者に分かれ、アロンの子孫が祭司職を継ぎました。それでレビ人は4つに分かれ、アロンの子孫が与えられた町は「祭司の町」、他は「レビ人の町」と呼ばれるようになります。  
 前回、このシリーズで取り上げた「のがれの町」がこの「祭司の町」「レビ人の町」のいずれかと重なっていることは注目に値します。殺意はないのに不可抗力によって人を殺してしまった罪人をかくまう町では、単に身の安全を守るだけでなく、霊的にもその人をケアすることが重要になります。レビ人は独自の相続地を与えられなかったことによって、イスラエルの各地に分散して住むことになったのです。
 どの時代においても、神のみこころは祭司たちを「集結」させることではなく「分散」させることにあるのではないかと思われます。数やかたちでは影響力を増すのではなく、主が置かれた場所で、それぞれが淡々と主を仰ぐことが大切です。

 ここでもう一度、前回の「のがれの町」のメッセージを振り返ってみます。最大のポイントは、今日における「のがれの町」の本質は固定された教会ではないということ。それは、キリストの贖いの血にのみすがる個人の信仰であり、私たちは時間や空間を越えて、「今」いる「ここ」において、「霊とまことによって」礼拝することが出来るということ、そして、そうするべきだということでした。
 このことをふまえて今日のテーマである「祭司のつとめ」とつないで考えてみましょう。この時代には、祭司の仕事はレビの特権であり、イスラエルの他の部族には許されていませんでした。しかし、新約においては、すべての兄弟姉妹が「王である祭司」です。(Ⅰペテロ2:9)
 「のがれの町」が新約の時代においては、特定の場所や組織を指したものではないように、祭司職も特定の人物や役職ではなくなったのです。レビ族の奉仕を支えているのは、律法の与える権威ですが、今日キリストの血による贖いを受けた兄弟姉妹は、レビ系ではなくメルキゼデク系の祭司だということです。

 メルキゼデク系とはどういうことでしょうか。
 メルキゼデクは旧約聖書では、創世記14章と詩篇110篇に出てきます。たったそれだけです。メルキゼデクは「シャレムの王で、いと高き神の祭司」(創世記14:18)です。シャレムは、後のエルサレムです。シャレムは「神の住まい」また「仮庵」としてあげられており、(詩篇76:2)そこは、ダビデの町でもあります。
 メルキゼデクは、アブラハムがロトとその財産と民とを東方の王たちから取り返して帰ってきた時、パンとぶどう酒を持って出迎え「いと高き神」の名によってアブラハムに祝福を与えたと記されています。アブラハムは、すべての物の十分の一を彼に与えたのでした。(創14:18~20)
 アブラハムからするとレビは曾孫になるわけですが、その4代目の子孫であるレビが生まれる前に、「アブラハムがメルゼデクに捧げ、メルキゼデクがアブラハムを祝福した」という事実を記してありのは、「信仰の父アブラハムよりも、メルキゼデクを上位とする」関係性をはっきりとさせるためです。それは、後付けの理屈ではないのです。律法が与えられる前から、予め、その飛び越しがあることを語っているわけです。
 つまり、レビが生まれる前からメルゼデクの優位性は啓示されており、律法が制定される前から律法を越える直接の祭司職が存在することが語られていたのです。ヘブル人の手紙の中では、この創世記14章の短い記述について、他にあまり例をみない丁寧さで解説されています。なぜなら、今日のテーマである祭司のつとめについて考える上で、メルキゼデクについての理解は極めて重要だからです。

 「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。 その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。 一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他のばあいは、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」(ヘブル7:1~10)

 メルキゼデクは、旧約聖書でただひとり、「王」であると同時に「祭司」である人物です。これはまことの大祭司であり、目に見えない天の幕屋に仕えるキリストのモデルですが、同時にキリストの血による贖いを受けてまことの聖所に近づく私たち教会が、王でありまた祭司であることをも表しています。「また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」(黙示録1:6)と記されているとおりです。ペテロもヨハネも同じことを言っており、それはアブラハムがすでに初めから受けていた啓示と共通するものです。
 祭司のつとめに関する律法の時代のモデルがレビ人なら、新約の時代のモデルはメルキゼデクなのです。従って、新約時代に生きるクリスチャンが、レビ系のあれこれにこだわるのは、律法に逆戻りすることになります。メルキゼデクの後にレビ人が現れたのは、違犯と不適格を明らかにするためであると知らねばなりません。イエスが語られた「良きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:25~37)を思い出してください。傷ついた瀕死の隣人に気づきながら。見て見ぬふりをして通り過ぎたのは誰でしたか。そう、祭司とレビ人です。私たちは、自分たちが良い行いを施す誰かさんを探す場合ではなく、自分自身が神の前に既に瀕死の状態であることを知らねばなりません。「良きサマリヤ人」のごとく、人間的には受け入れたくない姿で来られた人としてのイエスに「隣人」になっていただかなければどうしようもないのです。
 このたとえは贖いの本質について語りながら、道徳といのちの問題や、祭司職の完全な終わりについても教えています。いいですか、以上のことから考えても、教会における牧師や宣教師などの特別な奉仕者に「レビ人の特権」を適用して考えることが、いかに愚かであるかがわかるでしょう。それは肉によって霊に仕えることです。キリストの名を使った宗教をやっていても、それは時空に縛られたごっこ遊びなのです。
 改めて繰り返します。新約のキリストの血による契約によって贖われた祭司は、もはや時の支配や場の束縛を受けないのです。つまり、日曜日の朝10時半とか、教会という建物や場所とか、さまざまな教団の教えや行事、伝道奉仕などの様々な義務などから完全に解放されているのです。 
 祭司のつとめは、キリストと個人的つながりを豊かに保つことであり、キリストの王国を足場にして生きることです。神からのメッセージを受けること、みこころを知ることに関して、権威があるとされる他者に依存するのは、祭司の義務と特権を放棄しているのです。ちっぽけな満足や安っぽい安心感のために組織や他人とのつながりを求め、この世に足場を設けていることが何と多いことでしょうか。
 メルキゼデクは、律法が与えられる前に、「パンとぶどう酒をもってアブラハムを祝福した」のです。これはまさにイエスが弟子たちにパンと杯によってご自分を覚えるように語られた新しい契約の型です。(マタイ26:26~29)そしてこれは、後になってモーセが与えられたすべての律法にまさるものです。律法が保障するレビ系の祭司職は一時的であり、メルキゼデク系の祭司職は永遠のものです。私たちは、キリストの贖いによって、レビ系祭司とは全く違う次元の礼拝者とされているのです。(ヘブル7:17)
 メルキゼデク系の祭司職の秩序はレビ系のそれとまったく異なっています。レビ系の祭司職を支えている力は律法です。しかしメルキゼデクの祭司制の力は朽ちることのないいのちなのです。それは、イエス・キリストの復活の力です。
 メルキゼデクとはいったい何者だったのでしょうか。それは実際の人間だったのでしょうか。「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい」というような記述を見ると、それは歴史的に受肉する以前のイエス・キリストではないかと思われます。人の子イエスは世の初めからおられた方です。その方が、信仰の祖であるアブラハムに違犯を示すための律法が与えられるより遥か前に、メルキゼデクとして現れてくださったということはあり得ることです。

 最後に、ヨシュア記全体にとって、最も重要な箇所であると思われる数節を見ましょう。
 「こうして、主はイスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(ヨシュア21:43~45)
 主が約束されたことがすべて実現した。だから、そこにこそ、安息があるということです。
しかし、聖書のメッージの中心はヨシュアの時代にはありません。それはダビデの時代に受けつがれ、まことの大祭司であるイエスの時代へとつながるのです。(ヘブル4:7~13)
 ですから、何度も語って来ているように、この時代に起こったあれこれは今日にこそ本当の意味を持つのです。「もし、ヨシュアの時代が彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう」(ヘブル4:8)と書かれています。
 安息の鍵は、「みことばを信仰によって結びつけること」と(ヘブル4:2)「みことばに対する従順」(ヘブル4:6)です。そして、それを実現する為には、「自分のわざを休むこと」(ヘブル4:10)「みことばによって霊とたましいを切り分けること」(ヘブル4:12)です。
 私たちは何としても約束の安息を手に入れ、祭司として日々主の前に出るつとめを喜びをもって果たせねばなりません。
by kakosalt | 2013-07-30 22:17 | 約束の地 カナン

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