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エペソ人への手紙 第2章

エペソ人への手紙 第2章



2011年2月13日      エペソ人への手紙 第2章

 エペソ人の手紙1章には、荒唐無稽とも思える壮大な計画や桁外れの祝福について書かれていました。しかし、2章には、私たちをさらに混乱させるような内容が続きます。 
 前半には、私たちがキリストのものとなるまでの立場や状態についての記述があります。
 この記述には、私たちの認識を越えた驚くべき現実が明らかにされています。
 まず第1に、「私たちは死んでいた」ということです。第2は「サタンの存在」です。そして、第3は「神の怒りの対象であった」ということです。キリストを必要としない人たちに、このような意識は全くありません。救われる前の私たちも同様です。 

 神を信じない人たちは、神にもサタンにも従わず、ニュートラルな領域で自立して、不自由なく生きているという感覚を持っておられることでしょう。不幸にして「自分は呪われている」と思い込んでいる人でさえ、何か特別な出来事があってそう感じているだけであって、産まれながらに神の怒りの受けるべき者だと自分を評価する人など一人もいません。ここに書かれている事柄は、深い思索や鋭い観察によって得られる結論とはかけ離れたものです。論証できる類のものではありません。
 パウロの伝える啓示によれば、私たちは空中の権威を持つ何者かにコントロールされているとはっきり書いてあります。そして、あたかも死んだ魚が川の流れに流されるように、自分の意思とは関係なく望んでもいない不幸な末路へ向かっているというのです。しかも、そのような状況を私たちは自分の力や責任ではどうすることも出来ないにもかかわらず、それは、神の御怒りを受けるべき状態だと断定されています。啓示がここまでだとしたら、正直こんなアホらしい話はありません。

 ここまでのポイントを整理して、聖書の他のことばから補ってみます。
 まず、私たちは「空中の権威を持つ霊に従います」という意思決定をしたのではありません。つまり、「神に従うか、それとも否か」いうような選択をしたことは一度もないのです。はじめから不従順の中に閉じこめられていたのです。「被造物が虚無に服したのは、自分の意思によるのではなく、服従させた方による。だから、望みがある」(ローマ8:20)と書いてあります。
 そして、私たちは無罪の状態で産まれて来て、あるとき罪を犯して駄目になったのではなく、罪人として産まれたのです。つまり初めからまるっきり駄目なのです。「義人はひとりもいない」(ローマ3:10)と書るとおりです。今後も立派になる見込みはゼロ。道徳なんか意味がないということです。それは、死刑囚がゴミ拾いしたって無罪放免になるわけがないのと似ています。
 しかし、これらの状況が設定されたのは、神の作品創造のためであると書かれています。これについては後半で詳しく触れます。これこそが聖書の中心的なメッセージであり、パウロの啓示の核心部です。「神の作品としてのキリスト者」について考える前に、もう少しその背景となる状況についてお話しましょう。
 聖書全体を読めば、この空中の権威を持つ者は、人間よりも遥かに高い能力を備えた霊的存在であることがわかります。このサタンはエデンの園においては蛇に化身して現れ、エバを誘惑して人類を罪に陥れました。さらには、人となったイエスをも誘惑しています。彼の本質は、「偽り者」で「人殺し」です。みことばを自在に操ります。荒野におけるイエスへの誘惑を見ても、彼はこの世においてかなり大きな権限を持っているようです。しかし、「ヨブ記」を読めば、彼に与えられている権威は限定されたもので、神の被造物に関する最終的な決裁権は神御自身が握っておられます。ずばり、それは「いのち」に関してです。サタンは「いのち」に触れることは許されていませんでした。

  「ヨブ記」は当然、主人公であるヨブを中心にして書かれていますから、ヨブの家族はヨブという人物の周辺情報でしかありません。表面的に読んでいくと、ヨブの家族はヨブの試練の材料として、いとも簡単に「いのち」を取り去られているようにも感じられます。しかし、それぞれの「いのち」が失われることに関して、神に間違いがあるわけではありません。「雀の一羽でさえ、神の許しなしに地に落ちることはない」とイエスは言われたのです。だから、それぞれの登場人物を主人公として物語を紡ぐならば、それぞれの必然性があって、神はサタンの仕業を容認されたのだという理解が不可欠です。この理解が欠けると、「信仰者はえこひいきされる」という幼児的な世界観で物事を見つめるようになりますから要注意です。
 神は一人ひとりを個別の愛し方で愛し、また導かれます。その方法や展開によって、状況に違いがありますが、個別の事例を取り扱われる神の愛と義は決してブレることはないと私は確信しています。神は御自身に反逆したサタンさえも瞬時に滅ぼさず、祝福の道具として用いられます。贖いということがあるので、神は余裕をもってサタンの動きを見ておられる様子がわかります。常に最終的な決裁権は神にあり、サタンは神の許しの範囲で活動しているに過ぎません。

 「自分を信じる」というのは、神を信じない人にとってはお気に入りの考え方です。それは、言い換えれば「己を神とすること」であり、サタンに同意することに他なりません。サタンという霊の最大と特徴は、「被造物でありながら、神のようになりたがること」です。サタンは栄光を神から奪う霊なのです。
 現実に、サタンは今も力強く働いていて、大きな影響力を持っています。ところが、彼は自らの存在をカムフラージュしながら、己の運命に人間を巻き込もうとしています。どうやら、彼は避けがたい自分の運命を知っています。そこで許された期間に、神の準備した贖いを無効にしようとして働いているのです。神は人を試す環境として、サタンの一時的支配をお許しになっています。そのような神の見えない不条理や混沌の中で、痛みを覚え、憂いを感じるかどうか。そのような世界にあって、イエスの生き方と死に様を見て、そこに愛と義を感じるどうか。この御方に救いを求めるかどうかを試しておられるのです。
 私たちが不従順の中に閉じこめられたのは、救いの望みの為です。確かに、私たちは義人ではなく罪人であり、いのちの歓びではなく死と裁きに向かって進んでいます。しかし、それはすべての人が救いの可能性の中におり、キリストの花嫁として、神の家族としてエントリーされているということなのです。

 エペソの2章は、救われた私たちが、自分の過去と周辺の現状を認識するための神の視点です。クリスチャンは、滅びに向かう大きな流れから救い出されて、確かにこの流れとは別の足場を得た状態で、この世を見つめるという複雑な状況にいます。私たちは、この流れのただ中にあり、今なおその影響を受けますが、とことん流されていくことはないし、その流れを遡上するいのちの力を持っています。私たちは渓流を遡る鮭のように、この流れに打ち勝つのです。私たちは死んだ魚ではありません。

 救いは、キリストとともにあります。神の圧倒的な主権によって計画され実現されているのです。私たち自身から出たことではありません。それは、私たちが救われたいと願ったから救われたのではなく、神が救おうとされたから救われたということです。これを恵みと言うのです。それは、救われるべき人間と救う神とのニ者関係ではなく、サタンとサタンに追従する御使い群を加えた三者関係の中で考えなければなりません。神は、サタンが混乱させた秩序を回復させようとして、他の被造物の贖いという方法を設定されました。御自身の血によって人間を贖い、世界をきよめることは、無法者を懲らしめるということ以上の支配者の自己表現であり、高らかな宣言なのです。

 続いて、後半の「私たちは神の作品であって、良い行いさえも備えられている」という表現に注目したいと思います。神の作品であるというとき、私はそこにふたつの大きな意味合いを感じます。神がある意図をもって何かを創造されるとき、そして、神御自身がその名を刻まれるとき、そこには神の圧倒的な主権と、神としてのプライドがあるということです。主権とプライドです。それは私たちの問題である前に、神の問題なのです。これは喜ばしいことです。
 神の被造物は、ある意味で全てが神の作品ですが、神のいのちによって贖われたものは、永年に残る作品として不滅の価値をもっています。神はあわれんでくださったのです。あわれみの器として陶器にたとえられています。(ローマ9:20~24)

 陶器の話が出て来ましたので、ひとつ面白い例をご紹介したいと思います。
 徳川2代将軍秀忠にも茶の湯を指南した古田織部という茶人がおりました。織部は利休に師事していますが、師匠が追求した「わび茶」を離れ、利休が打ち立てた茶の湯の定型を次々に破壊しながら、独自の美の世界を発展させます。歪みや焼けぞこないの茶器を尊んだり、床の幅に合わないからといって掛け軸をふたつに切ってしまったりしています。そんな織部に、私が絶句した、驚くような作品があります。それは、大ぶりの茶碗を故意に十文字に割って、小ぶりの形に仕立てたものです。井戸茶碗で銘は「須(しゅ)弥(み)(十文字)」と言います。須(しゅ)弥(み)とは古代インドの世界の中心を表すことばです。一度出来上がっているものを、わざわざ壊して、壊したものを素材にしつつ、全く新しいものを作り直すところに美を見出すという画期的なものです。私はこの茶器を見たとき本当に感動しました。一部には、血をイメージするような朱があしらってあるのも驚きです。
 私たちキリスト者は、新創造の作品です。キリストの血という釉薬を塗り込まれ、十字架というかまどでキリストとともに焼き込まれ、一期一会の茶をたてるために、とっておかれているのです。この真の意味は聖餐式です。茶の湯は、隠れキリシタンの聖餐式であるという説もありますが、もしかしたら関連はあるかも知れませんね。

 神の真の作品とは、教会という「新しいひとりの人の創造」であると書かれています。この教会による平和の実現こそが、新創造の目的です。教会はユダヤ人と異邦人を結ぶものです。十字架によって敵意は廃棄されました。敵意とは律法のことです。律法は終わったのです。ですから、ユダヤ人も異邦人も区別はありません。これも重要なメッセージです。ユダヤ人はさげすまれることも、尊ばれることもないのです。打ち壊されたはずの隔ての壁を築くのは、キリストの御業を無効にすることです。どのような種類の律法も改めて持ち出すべきではありません。
 キリストの御業とは何でしょうか。それは十字架です。私たちは十字架だけを誇りとすべきです。
 「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているかいないかは大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に平安とあわれみがありますように」(ガラテヤ6;14~16)

 十字架が私と世界との関係性を全く変えてしまうのだと書かれています。
 みなさんはいかがですか。
 世界は私に対して十字架につけられたのでしょうか。私も世界に対して十字架につけられたのでしょうか。世界の主権者はサタンであることを確認しました。
 つまり、エジプトにいながら約束の地カナンに心があったヨセフのように、バビロンにいながら窓の彼方のエルサレムに思いを馳せたダニエルのように、私たちは、この世にあって、どこに足場を置いているのでしょう。
 サタンの提供する足場の上に建物を建てようとしている人がなんと多いことしょう。私たちの足元には使徒と預言者たちが築いた土台があるのでしょうか。礎石であるキリスト御自身の上にしっかり立っているでしょうか。また、他の兄弟姉妹とひとつの建物として、正しく神の設計図どおりに組み合わせられているでしょうか。
 このキリストにある全体、新しく創造されたひとりの人、ひとつの建物を信仰によってとらえることが大切です。
by kakosalt | 2013-07-30 22:34 | エペソ人への手紙

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